続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

2019/10/4行列の先頭ライブ感想

10月に見た『行列の先頭』ライブの感想をサルベージする。とりあえず雑多な印象。

 

ランジャタイ

漫才でインターステラーをやっている。インスピレーションの飛ばし方が、絶妙に脳内再生可能なスピードに調整されておりかつ非常にクレバーで理解するは喜びがある。とりあえず暗闇で飛んでくる武田鉄矢には気を付けた方がいい。M-1準決勝楽しみにしている。

かが屋

コントの情報量の粒立ちがすごい。ストーリーとドラマの配分、コントの仕掛け、感情の伏線どれも一級品。ラストにふさわしい。曜日の伏線。途中話が途切れ同時に転換する時の舞台のレイアウトの完璧な立ち位置。ギリギリフィクションを出ない域の周囲の巻き込み方。話し方のボルテージと、最後彼を見送る彼女が机で手を叩く仕草!

会話の核の脱線の男女リアリティといい、全てが完璧。紛れもなくコントの新時代である。

空気階段

基本大喜利なのにそこまでの緊張の作り方が上手いし笑いどころになってる。かたまりが狂うネタ大好き

宮下草薙

暗い想像力のネタは単純に面白いので力関係をどこまで持ってくか。平場をあまり見てないのでどういうコントロールをしているのな。

四千頭身

ステマチックに漫才を崩す手口は一級品

三四郎 漫才をめちゃめちゃにするな

 

以上です。M-1楽しみ〜

オタクは脱落するものか

オタクは脱落するものなのだろうか。

年を重ねる毎にオタクはオタクをやめる/やめない論を様々な形で話題に挙げる。友人らと会っても必ず『我々はオタクだろうか』という話をしている。ネットの上でもそれは変わらずそこらかしこのクラスタで行われている。時には『オタクやめます』なんて宣言する人もいる。これに一貫して言えるのはこの話をする人が全員、オタクはやめられると思っている事である。当然やめられないものに辞めるやめないの話をする意味はないからだ。しかしどうだろうか。オタクはやめられるのだろうか?

結論から言えば、俺は無理だと思っている。

 

オタクをやめるというのはどういう状況か考える為にはオタクを定義しなくてはならない。何かについての良書は常に何かの定義から始められる。そしてオタクの定義というのは様々であり掴みどころがない。つまり以降の話が掴みどころのない話になるのは必然であり俺の思慮の足らなさに起因するものではない(この期に及んで言い訳をするな)。

 

オタクをやめる、という言葉の不思議さは「やめる」は自動詞なのに「オタクをやめる」に包括される行動は全て他動詞、他人に観察される行動だという事だ。例えば「絵を描くのをやめる」がそうである。

あるオタクが絵を描いていて、Twitterで人気を博していた。それがある日突然絵がTwitterにあがらなくなる。これは「オタクをやめる」の典型的な例である。しかし、もしかしたらそのオタクはTwitterに絵をあげないだけで自分のために絵を描いているのかもしれない。この場合、オタクはやめていないと言えるだろう。SNSの時代に顕著だが、「やめる/やめない」が「見える/見えない」と同一に扱われることは往々にしてある。

 

そして俺はオタクの定義は見えないものだと思っている。オタクは志であり、物理的心理的に関わらない物事への運動の仕方、働きかけ方かオタクだと思っている。これは目に見えないが確実に『分かる』。この点においてオタクにはジャンルが違えど互換性があると思っている(時々特定のジャンルを別のオタクエリアに持ってくる遊びが成立しているように)。

この定義でいけば、オタクは顕在化せずしかし人の生き方に大きな影響を与えるものだ。何せそれは思考に及ぶからである。つまり一度オタクになったものは、成果物を出そうが出さまいが在り方としてオタクであり続ける。我々は運命の黒い糸で焼豚の様にぐるぐるまきになっている。

 

だからというわけではないが、時々思いを馳せたりもする。かつてネットで繋がっていた人々、今はもう連絡を取れずなまじ成果物が耳目を集めていたためもうオタクでないと呼ばれてしまう人々が、その生活の端端でオタクで在ってしまう瞬間を。どこまでもオタクは続いていく。

だから時々戻ってきても良いとも言える。インターバルを空けてオタクに帰ってくる人だって沢山いる。脱落、辞めるなんて言わないでオタクで在り続けてくれと思うのである。ただオタクは続いていく。

日記(09/28~29)

ディズニーランドに行った。これは会社のイベントであって時々起こることだ。朝から並んで、程々にいろいろに乗り(スペースマウンテンは面白い)様々を食った。ハロウィンだからかコスプレをしている人も多く面白かった。なんというかコミケのそれとは場所も違えば雰囲気も違うというか軽装から重装備まで様々が混在している感じが良い。みんな精力的に動いているのでにぎやかだし。普段会わない人々がたくさんいるのでそれはそれで楽しい。スター・ツアーズなんて映画と同じ小道具があるだけで興奮したのでオタクはちょろいものだった。

とかくディズニーは疲れる。会社の人々と別れた帰宅途中足が棒になる中、乗換駅の構内で偶然学生時代の友人二人と遭遇した。聞けば彼らも昼からだべっていた帰りだったらしい。そのまま構内で終電まで立ち話をした。1時間ほどだったがかつて学校に通っていた駅で普通に立ち話をするという馬鹿げたシチュエーションだとかそれぞれの興味方向が微妙に違う中お互いの近況(これはハマっているジャンルや面白かった出来事の話でありお互いの環境の話ではまったくなかった。逆に日中夢の国では環境の話ばかりしていたともいう)はめっぽう面白く足の疲労も忘れるほどだった。

 

翌日、足の疲労は確実に残っていたので丸一日家で過ごす。FRENZ後初の家で過ごす休日だ。とりあえずストレンジャー・シングスの1シーズン目を見終わる。5話からの話の加速が面白い。ヒューマンドラマの描き方があっさりしていて古き良きSFの風味が強い強引な脚本なのがよかった。自転車に乗ってどこまでも行きたくなる。シーズン2も見なくてはならない。

そしてゼルダの冒険BoWをインストール待ち時間に昨日進められた少女終末旅行の1巻を読む。アニメより漫画がいいと勧められたけど漫画ならではの技法が冴えていてとても良かった。

その後BoWを遊ぶ。生まれてはじめてまともな据え置きオープンワールドゲームをやるが環境の描写がすごすぎて無限に遊べるやつだった。とりあえず祠がまだ見つからない。

また映画も予約したし、コンテンツに触れていかなければならないな―という一日だった

 

FRENZ2019お疲れさまでした(作品制作編)

作品の解説をします。

壇上で話したこと含め、制作の流れとかを。なぜなら俺が書くことで他のみんなが描いてくれるかも知れないから…

まず作品はこちら↓

www.nicovideo.jp

 

○制作のきっかけ

やるかーやるしかないかー

○作品コンセプト

まずSFという題材ありきで考えていました。

なぜSFか。それはSFにどんハマりしたからです。飛浩隆は最高。

まぁSFと一言に言っても様々あるので、影響を受けたものをいくつか挙げます(ここに特に確固たる信念があがらないのが二次創作者たる所以)

・音楽

IDOLM@STER「Miracle Night」「99Night」

いきなりアイマス。しかしこの2曲は出色の出来なんだよな…「夢じゃない!夢じゃないんだ!」「なんてスターライト 浮かぶハイライト」素敵!TakuInoueは神。特に「はりぼてみたいな宇宙船だけど どこまでもきっと連れて行くよ」という歌詞は話の原型になっています。言うほどハリボテっぽくならなかったが…。というかタイトルのSTARLINEも「黎明スターライン」から来てるし実質これはもうアイマスの二次創作。

・映像

ラブ・デス・ロボット

Netflixのロボットが出てくる短編集である。元々はスパイダーバースのスタッフが参加しているということで見たのだけど、それ以外の短編のクオリティも軒並み高かった。この中にSTARLINEと同じネタのものがあるが、これは偶然です(と言うよりロボものの王道と言えるので)

・その他

インポッシブル・アーキテクチャ

建築についての展覧会だが、全く作中で出て来ない惑星の設定について非常に参考にしている。セリフに出てくる「地殻フレームから給電中」みたいなセリフの元ネタとかになっています。

firstlot13.hatenablog.com

 

あと話のキモとして最初に「ヘリ(ドローン)に後ろから迫られるシーン」「メカ娘が破壊されているシーン」を設定して話を練っていきます。

 

○迷走

作り方がランダムに材料を用意してから練っていく方法なので、出力が異なるモノがバンバン出てきて迷走を重ねました(これが2月〜5月くらい)。メカと人間ネタなんて無限に組み合わせがあるので。例を挙げると『メカメイドと旧家のおぼっちゃまの主従成長モノ』『生まれつき翼が生えているが故に幽閉されている女の子を救いに行く幼馴染の男/女の子』『棄てられた空中都市を一本繋ぐレールを走る電車モノ』などなんだかヘンテコな話ばかり出てきてそれぞれが画力が足りなかったり元ネタが出過ぎていたりとボツになり、残ったのが『牢獄となった惑星から逃れる女囚人』の話でした。ここからは尺を詰める段階になり、元々囚人が他にも出てきてたのがボツ、そもそも生まれながらの囚人だった設定がボツと主に回想シーンをボツりまくりようやく五分に収まりそうになったのが最終バージョンでした。ここで6月です。最終バージョンが出たくらいでとりあえずFRENZに申し込みました。そしてこのへんで「褐色」「水色の髪」というキャラデザが降ってきました。ここで勝ちを確信した(勝ったとは言っていない)。

 

○作業

WORKINGエリアに入っていきます。まず個人制作なのでコンテを切らず好きなところから描き散らかします。そして全部没になりました。

なぜなら5分に収まらない!今回抽選になるのは見えてたので規約だけは守ろうと必死に時間を削りました。そして元々考えていたカブラギが穴に落ち、ロケットを発見するシーン、「よろしく!」からロケットが出来るまでの間のロケットをつくる回想シーンを削り、大体3シーンで全体がまとまりました。やったね。ここで1次提出です。許してくれ。

本当に制作については工夫も何もなくひたすら描くだけでした。aviutlのカスタムオブジェクトでかんたんに星空が動かせたのが便利でした。あとNASAのフリー素材アーカイブ超楽しい。ロケットの写真いっぱいある。

○終わり

ここは壇上でも言いましたが最後あおPに泣きついて音楽つけてもらってレンダリングしてもらって俺がD&Dでデータを提出しめでたくおひらきになりました。これで完成データがあおPの元にあることになり修正期間は無でした。

 

○当日

二日目の夜だったのですが一日目から割と緊張していて、特に二日目の開場前は一人バーガーキングで震えていました。

今回は一部と言う割と早い時間に流れたので、割と壇上でも落ち着いて話せていた気がします。どんぼこさんが気に入ってくれていたようでありがたかったです。あと地生さんが作品の無音状態をちゃんと把握していることにビビってしまった。前田地生許してくれ…。

あとは会場で声をかけてくれた方や声をかけて答えてくれた方々に感謝するのみです。いやほんと、動画のイベント一切顔を出さない人間なのでここでしか皆さんにお会いすることがなくそんな人間のこと忘れて当然だよな!と思うのにみんなとてもあったけぇ…うゆゆゆゆ…。キャラかわいいって感想が多くてよかったです。全く続きは未定だけど、なんかスターシステム的に使いやすい奴らではあるのでバッカーノ世界におけるアイザックとミリアのような使い方ができればな―と思っています(スターシステム好きなのでLOVEFRAMEにも過去作の人間出してる)。

毎年ここで思うのが会場の物語リテラシーの高さで、今回は特にシーンをボツりまくったので全てが伝わるか心配だったのにきちんと意味を汲み取ってくれていてとてもありがたいです。もっと練り込めるよう頑張ります。

特に「帰ってくるところが最高」そうそれ。帰ってこないと。「吹き出しが身体より前にぶっ壊れているのでまずそう叫んだってことですか」まさにそう。などの分かり手には舌を巻きました。

○ざっくりお話解説

かつてライフフレーム(立方体のフレームをつなぎ合わせ、その中に電気などのライフラインを通したもの。テラフォーミングの区画単位に使われ都市開発の基盤をなす)を使用したテラフォーミングに失敗し不毛の土地と化した惑星ルーニン。カタリーナ・カブラギは違法ハッカーとして異星間企業の情報流出の一端を担ったことで指名手配され逮捕。寿命を超える実質終身刑を告げられルーニンにやってきた。

そこでニータと名乗る女性とAT-Ⅱと名付けられたロボットと出会う。彼女らは地中のフレームを巧みに使いルーニンを脱出するロケットを作成していた。カブラギはそこに合流し、二人と一体でロケットを作り上げていく。

ロケットは完成し、彼女らがそこに乗り込もうとした時、監視用ドローンが一行を捉えた。ルーニンの極に埋め込まれた無人監視棟がロケットのエネルギー用に地殻フレームから充填されていた電気の流れを察知し差し向けたものだった。

なんやかんやで(ここは映像を見てくれ)ドローンを撃退したかに思われた彼女らだったが最後放たれたミサイルがニータを貫き、爆発する。そうしてロケットはAT-Ⅱとカブラギを載せたまま打ち上げられた。

ロケットで失意のカブラギ。その前に現れたのはモニターの中にいるニータだった。実はニータはAT-Ⅱ内に実装されたプログラム(AI)であり、カブラギが人間として接していたのはAT-ⅡがプログラムAI『ニータ』で動かしていた生体ディスプレイ型アンドロイドだったのだ。『ニータ』はルーニンで破壊されたがバックアップはAT-Ⅱの中で生きていた。

そうして一人と一体は宇宙へ飛び出していく…(完)

 

○感謝

今回の話は無論あおP氏の尽力がなければ無音状態で公開されていたことは事実なのでまず感謝を。そして呪詛を通話で受け止めてくれた友人共。実家の犬。ありがとう。また通話に顔は出さなかったけど同じ時間軸で作業していたFRENZ地獄ディスコードの皆さん。作品作りは無限の荒野を一人歩き続けるに等しいので、そこで姿は見えないけれどもたしかに同方向に歩き続ける同胞がいる!というのを感じさせてくれました。そのおかげで無事完成にこぎつけたと言っても過言ではない。またこの一年LPO以外で邂逅した動画製作者の皆さん。なぜかflash勢が多いけどこれも何かの縁です。また願わくば新作を見せ合い時には酒を飲んでいきましょう。また前作今作を会場で見てあまつさえ感想を言ってくれた皆さん。見てくれただけでも感謝感激なのに感想を言ってくれるとはいたれりつくせりです。みなさんに幸あれ。正しい行動を取る皆さんに祝福を!そして主催はじめFRENZスタッフの皆さん。みなさんのおかげでFRENZは形をなしています。またLPOで大いに泣き笑い拳を突き上げる瞬間を感じていきたい!Thanks for your frenzy!

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FRENZ2019お疲れさまでした(イベント感想編) #FRENZ_JP

と、いうわけで9/14,15に行われたFRENZ2019、二日目夜の部に出展しておりました。参加者並びに運営の方々はたまた観客の皆々様方本当にお疲れ様でした。

作品の話はおいておいて、まず一般全通参加者として感想をば。

今回はFRENZ10周年ということも関係していたのか、とにかく「エモい」作品が多かったと感じた。それは作品の要素としてのエモさ(音楽、映像、ストーリーラインの良さ)と出展者のエモさ(経緯、出展意図などの想い)の両方が含まれる。あまり普段エモいって言葉は使わないのだけど、処理しきれない巨大な感情はこう表現するしかなく、FRENZというイベントで出される作品、出てくる出展者というのはえてして巨大なので仕方がない(巨大なものの例:15年以上連綿と続く映像制作の系譜、誰も幸せにならない女二人の思いの交錯、地球に飛来する虹色の主催)

今回も100作品ほどの映像を2日間で見たわけだけども、いちおう全作品に感想をつぶやいた。おそらく出展者の名前と#FRENZ_JPで検索してもらえれば出てくると思う。これは普段映像をそこまで見ない(失礼な話だ)自分がイベントにできるせめてもの貢献だし、何より感想はとても嬉しいからである。嬉しいことはいいものだ。だから俺に対しても嬉しくしてほしい。

 

なので少し全体的な感想を

・映像のアップデート

去年と言葉を変えて同じ事を言っているけど、最早2Dと3D、フィクションと実写相反する表現を使って更に自分を高めようという表現が多かった。映像という広大な枠の中でどこまで出来るのか、枠自体を拡張できないかと果敢に挑むクリエイターの飽くなき探究心が今年も存分に発揮されていたと思う。去年の作風から一気に流れを変えてきたり初の出展者

がいきなりぶちかましてきたり名義を変えた出展者がぶちかましてきたりさながら映像パンクラチオンだった。

 

・映像の意味

このイベントの醍醐味は出展者の2分の登壇だ。最近「作品を楽しむには作者を深く知る必要はない」なんて言説がTLに流れていたがそんな事はない。何故なら我々はオタクだからだ。ものすごくヤバいオタクだ。オタクは文脈を愛する。歴史を重んじる。つまりクリエイターの登壇なんてのは大好物なのである。そしてそこで語られる映像への愛。創意工夫の妙が今年はより強く感じられた(司会が長年の映像制作経験者だった事もこの理由の一つだと思う)。

俺は感受性が無いので映像を割と額面通りに受け取ってしまうがその奥に隠れた意味は制作者を飛び出し、他の出展者に絡みつきFRENZを支えている(FRENZ10周年に意味を引っ掛けるなんて粋な映像が沢山あるのだ)。

ちょくちょく「FRENZ初めて来た人?」という問いが主催より投げかけられていたが10年の月日がその問いを発せさせたのかなとも思ったし、この問いに応える人が一定数いるからこその10周年なのだろう……と感じた。

閑話休題。意味の話か。

そんな意味のこもった作品を見られる場がいつも以上にアツかったと感じた。

 

・ドット絵多くない?

多いのに全部違うドット絵の力をフル活用してて、とてもすごくない?めちゃ最高

 

・音響をみんな信頼している

いつもより低音にみんな振ってない?音楽疎いからよくわかんないけど。でもライブの醍醐味だし最高

 

・み~~んなす~~~~っごい

すげ~~~~~!!!なんかみんな!すごい映像に対して真摯だし真面目!想いが全てに詰まっている。かっこいい作品の人は本当にクールな映像がグリグリしてるし、可愛い作品は毎カットかわいい。かわいいは演出なので全てがそこに向かっている。オモシロ作品の人たちみんな「滑り散らかすかと思った」とか言ってるけどそんなわけないじゃん自分で考えたギャグでリアルタイムであの場がウケないわけないギャグはガンガンやっていくべき。音楽!最高だぜ。俺には詳しいことはわからねぇがあの場で聞く音楽はもはや耳でなく身体で聴いているんだ。身体で聴く音楽は最高。あと手法で攻めるのもずるい。どんだけ人間は発想が無限なんだ。映像は何をやってもいいんだ。何をやってもいいから作ってもいいんだ。ありがとう前田地生。ありがとうスタッフさん。ありがとう全出展者。ありがとう観客席のみなさん。ありがとうLPO……

・温玉うどんはおいしい

これは本当。

 

というところで、作品の話も後でまとめて書こうと思います

とりあえずFRENZ2019お疲れ様でした。いつも以上に楽しかった。いつもは映像をまともに見ない人間なので毎年「俺はここにいていいのか……」と思っていますが、毎年FRENZで映像を見て最高になっているので「俺は映像が好きなのだ」と思えているのです。だから少しはいてもいいかな!とも思っている。

 

それでは。

 

 

3400円でワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを見た

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを見た。しかもグランドサンシャインのめちゃデカIMAXでである。そしてプレミアムシートでだ。1500円追加で結局3400円で映画を見たことになる。

もしこれからめちゃデカIMAXに行く人がいたら、とにかく上の席を取れと言える。下はだめだ。もしおでこに目があって縦の視野角が広いならいいけど。というかベスポジでも草食動物の視野角がスクリーンを見切るには必要なので、諦めてほしい。

そして話はプレミアムシートだが、ここはフカフカで勝つリクライニングが可能なシートだ。正直良かった。思いっきりリクライニングしないとまともに画面が見きれない。今回3時間映画見て疲れなかったし。値段と釣り合うかはわからないが、こだわりの映画を見たくてかつ興味があるなら試してもいいと思う。

 

(この下にはワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのネタバレが含まれています。視聴済みの人向けです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは救いの映画だった。

映画の中でヒトラーを焼き殺したタランティーノなので、史実であるシャロンテート事件をどう扱うか、というのはキモだったと思う。結果としてシャロン・テートは生き残った。ヒッピーによる凄惨な事件は起きず、(かなりエグい)返り討ちにあったのだった。

そして映画のもう一つのキモはディカプリオとブラピ演じる架空の人物である。落ち目の俳優リック・ダルトンとそのスタントマンクリフ・ブース。その非実在のキャラクタは映画を象徴している。映画(ワンス〜の劇中劇)の中でダルトンはかつての栄光のため、そして今の栄光の影として「悪役」としての役割を求められそれを果たすばかりだった。それを悩み酒を飲み、演技に支障をきたし、恥をかく。そんな負のスパイラルを断ち切るきっかけになったのが幼い女の子というのが良い。こまっしゃくれたと言ってしまえばそれまでなのだけど(彼女に言わせれば)俳優という職業の中でその思想は真っ当であるし、真っ当だからこそダルトンは同業者のものとしてその言葉を受け止め、酒を(少し飲んでから)棄て、最高の演技を見せた。それを彼女は正当に評価する。経験とかしがらみとかのないクリーンで対等な関係がそこに生まれていたのだ。尊い

 

シャロンはどうだろう。彼女は若く、自分の可能性を信じているように思う。彼女が自分の出演する映画を観に映画館に入るシークエンスはとても良かった。ネットに渦巻く自己肯定感とかそんな言葉を吹き飛ばすような、自分を知っているか係員に聞く表情である。知られている喜びは「私のファン?」なんてことは言わせない。あそこで撮られた写真のことをシャロンは一生覚えているのかも……。そして自分の出演シーンで観客が笑い驚く様を見る彼女は一挙手一投足がチャーミングだ。正直主演でもなく、なんか雑なお色気要員として出ている気がしなくもないが、それでも彼女は仕事でその役をやりきり、人を笑わせている。その矜持を強く感じたシーンだった。新人のシャロンとそれが一周したダルトンそれぞれが違う方法で同じことを思っているのだ。

 

クリフはどうだろうか。いまやすっかりダルトンのお手伝いとして仕事をしておりスタントマンとしてはあまり活動していない。キャスティングを決めるおえらいさんにも好かれず悪い噂が先行している(この噂の真偽は不明だが挿入されるシーンを見るに同情の余地はあるようだ)。そんな彼はダルトンの「友達以上、妻未満」としての役割を任せられている。すっかり落ちぶれたダルトン内助の功で支え、友人として、同業者として褒め(FBIを見るシーンの楽しさ!)、家に帰ればトレーラーハウスで犬と暮らしている。彼の矜持は最後、ヒッピーを殴り殺しダルトンとの関係を永遠にかわりないことにすること(もちろん別れの晩に泥酔することでも彼らは変わらなかったかも知れない。今後酒の席で話せるネタが増えるだけかも知れない)だった。

 

最後、ダルトンは冗談で言っていたポランスキー夫妻のパーティーに本当に招かれることになる。これが彼の、フランスから始まる華々しい復活劇の火口になるかはわからない。でもきっとそれはそうなんだろうし、だからこのタイトルは「昔々、ハリウッドで…」なのだ。

 

このように話はとても好みだったし、ヒッピーの娘はエロかったし、悪役は広がって歩くし、何より街がかっこよかった。これはタランティーノのこだわりだろう。あの猥雑な感じ、最高である。ダラダラ酒を飲みたくなる映画だった。

 

 

街の機微に気づかず

ひさびさに帰りの電車でよく寝た。家に人がいなかったので、外食の気分になり最寄りの駅周りを自転車で乗り回してみた。

 

なにを食べようか思案しながら夜の街を走ると、気づかなかった変化に気づく。古本屋は串揚げ屋になり、中華屋は唐揚げ屋になり、パン屋はタピオカ屋になっていた。

長く住んでいる街にはぽこじゃか家が出来て随分と様相が変わったななんて思っていたけれど、その変化を正確には把握できていなかったらしい。本当に様変わりをしているのだ。

結果ラーメンを食べて帰っていると、通りがかった公園で夏祭りをやっていた。地域の名前を織り込んだ音頭をヤグラで踊る人々の影は唯一覚えている記憶と一致するものだった。

しかし、その祭りにも屋台がほぼなく、自治体が飲み物を売っているのみになっていた。テキ屋が摘発されたのが響いているのだろうか。

時代に取り残されないように自転車を踏む足に力を込め、帰った。