続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

正義/分断

「正義とは健康のようなものである」と読んでいる本に書いてあった。(はい。今回は本の引き写しです)

健康とは体内の常在菌とかそういうものの均衡の上に成り立っており一度それが破壊されるとかなりやばいことになる(最近ずっと腰が不安で、かなりやばい)。正義も均衡の上に成り立つもので、それは相互性という原則である。相互性とは「私はあなたを脅かさない」だから「あなたも私を脅かさない」というものだ。

つまり正義は見えないがないと意識されるものである。かつ「あれ/それ正義か」「せいぎがあるかないか」なんてものはどうでもよく「正義は在らないと(作られないと)いけない」ものである。ということが書いてあった。

國分功一郎が「分断が何だって最近はしゃいでいる人が多いが、分断は古来から確実に存在しており分断の存在が問題なのではなく、分断が在ることを認識した上でどうするのか、が問題だ」とTwitterで言っていた。これは正義の問題と似ていると思う。本の中でも「正義」について言い争っている人は往々にして正義のなされ方、手段について言い争っているだけである、みたいなことが書いてあった。Twitterはほとんどそんなものだ。大義について語るようで大義の手段について語ると、大義を語った気分になるのだ。自分があたかも大義の執行者になったような大きい気持ちになるものだ。大きい気持ちは最高なので耽溺しがちである。注意せねばならない。

というような社会的な思考を一段階深く掘り下げてくれる思考を得られる『ふだんづかいの倫理学』、とてもおすすめです。まだ全部読んでないけど。

 

黒歴史は青春だ

黒歴史という言葉はかなり人に膾炙していてその分意味も拡散していると思うけれど、巷で使われているような『恥ずかしい/見せたくない過去の遺物』という意味であまり使いたくないと思っている。それは創作を楽しんでいる者として真摯な姿勢ではないと思うからだ。とはいえ昔の制作物をみだりに見られて良いのかと言うとそういうことではない。それらはとても技量が足りていない制作物だからあなたがやめたほうが良いですよ、という意味で見てほしくはないのだ。

つまり黒歴史の産物は自分にとっては意味がある(まあ制作物だから意味はあるに決まっているが)もので、その意味が他人にとっては意味がないから黒歴史なのである。自分にしか伝わらない意味(こういうのを尖った批評的文脈でオナニーなんて言ったりするけれど普通にダサいのでやめたほうが良いと思う。オナニーって常にそういう気持ちで行うものでもないし…)で固められた黒歴史は作者本人にしては重大な歴史だし、だから昔の作品を「はっは。これは黒歴史ですよ」なんて態度を第三者に取るのは作品に対して真摯ではない、と思う。なんなら青春ってそういうものでは?とも思う。青春は体感している本人にとってしか意味を持たず、第三者から見たらマジで意味不明だからだ。青春と黒歴史は同じということがこれで証明されました。よかったですね

顔を出す

顔というのがよくわからない。インターネットに顔出しはしない主義なのだけど冷静に顔が出たから何なんだ?という思いもある。もっと重要な情報を四六時中垂れ流している気もするし…。でも顔を出すのはあまり気乗りがしない。それは例えば鍛えていない胸筋を世に晒すようなものではないか。結局、顔に自信がないのだろうと思う。自信があれば顔も出すだろう。そしてこの自信というのはイケメンだとかそういうものではない。自信を持つように手を加えられているかどうか、商品として価値があるかということである。顔に手を加えると言うとあまりいい表現でないような気もするが、世の女性はほとんど化粧をしているだろうしそれは手を加えていると言っても良いと思う。そしてきっと化粧はそれなりに面倒でそれなりに面倒ならば作業の対価が欲しくなる。だから顔を出す。

ふりかえって男性の顔面は主に無添加であり無修正であり、まぁあんまりそういうものを世に出す気はしない。インターネットに何かを乗せることはその時点で辺に文脈を持ってしまうものだし、乗せるものは何かしらのスペシャリティを持つものとみなされる。スペシャリティを判断できるような判断軸を顔に対して持っていないしそんな知識もない人が顔を出すことはまぁデメリットはあれどメリットはないということになる。

という話が1つと、もう一つは自分は絵を描いているということで顔と向き合っている。絵の殆どは顔だからだ(下手な人のいいわけです)。そんなことをしていると顔のパーツに少しずつ興味が出てきていい顔というのがわかってくる。そうすると対照的にマズい顔、主に自分である、のこともわかってくる。そういうわけで顔のことについて最近考えることが出てきている。人間はみんな顔を持っているので意識しだすときりがない。どうにも大変だ。

 

 

 

一緒でいい

常に違うことを求めるというのは人の性であると思っていたけれど、例えばそれがアイデンティティの話だとして、アイデンティティはある特定の所属を持つことである、となりつつある。一人ぼっちではアイデンティティは確立できないと言うことを多様性という形は認めてきている。ただそれは初期の多様性であって、その道の先にはまた違う何かがあるだろう。しかし生きている間にそこに辿り着く感じは到底していない。だから一緒でいいのだと思う。いや、実は違うのだけど。違うことは分かっていても一緒であろうという志はかなり大事だと感じる

価値観を変える

価値観である。変わるのは。世の中では常に価値観が変わっているのだけど、価値観が変わってそこから何が変わるのか、というのが大事なのではないか。

ほいほいと価値観を変えればいいという話ではなく、君がその『価値観が変わる』といったそれは個人の価値観よりも大きいものが潜んでいるのではないか?そういう事を考えている。往々にして文化とかそういうものが潜んでいるのではないか。個人の価値なんて歯牙に賭けない圧倒的な価値がそこにあるんじゃないか。

 

家族がコロナウイルスに罹患し治癒しました

コロナウイルスにかかるメリット

仕事が休める

コロナウイルスにかかるデメリット

・2週間咳止まらん

・2週間熱下がらん

・血中の酸素が足らん

・痩せる

・経過とそれによる対応を人に説明するのが面倒くさい(すべての行動に原理原則がない割に周囲から根掘り葉掘り聞かれるので)

 

かからないほうがアドです。オタク、健やかに…

保坂和志を読むこと(途中)

保坂和志の著作がここ数年断続的に人生に関わっている。

というのも、最近保坂和志『小説の自由』を読んでいてこれはかなり面白く人生の一冊となりうるぞ、と興奮していた時「いやこの著者の本読んだことあるぞ」となりよくよく考えたら2、3年前に同じ著者の『遠い触覚』という本を読んでいた。そしてそのときも同じように興奮していたことを思い出した。

人生で全く気づかずに同じ著者の本に別角度から到達するというのはなかなか稀有で(もちろん意図して著者買いするということはあるけど)、ここで『何故保坂和志を読む(読んだ)のか』ということを考える必要があると感じた。その核はここ数年の自分を悩ませた問題にかなり近接しているのではないかと考えられるからだ。

 

何故読んだのか。それはインターネットで見かけたからだ。ここ数年、あまり本屋にも行かず図書館にも行かず、Twitterばかり見ている(良くない)。そしてTwitterには時折言葉の断片が流れる。それはネット記事だったり刊行物だったり個人の言葉だったりする。そして言葉の断片は断片では意味をなさずその文脈において言葉を発揮するという事は馬鹿じゃないので私にもわかる(これは攻撃的な文章だ。大学教育の一コマめで言う『一次資料に当たれ』に意味は近い)。言葉の断片だけを流すキュレーターアカウントに用はないのでわ引っかかった言葉の断片があったらその都度元ネタを探すようにしている。その中でたまたま保坂和志の文章があったのだ。そしてそれが2度起こった。これが何故保坂和志を2度も読んだかの真相である。

では何が引っかかったのか、まず『遠い触覚』の方から紹介する。

 

fktack.hatenablog.jp

リンク先が全てだけれど(リンク先の保坂和志に関する文章はだいたい全部良い)、この遠い触覚というのは「インランド・エンパイア」という映画を延々と見てそれに関する事が延々と書かれている。「インランド・エンパイア」を見ていなくてももちろん面白いけど見たほうが面白いと思う。私は見ていない。そして、記憶が正しければ『遠い触覚』を私が大学のときの講義で取り扱ったことがある。そしてそれはこの、1つの作品を延々と見て語るという方式についてのことだった気がする。きっと宮沢章夫の「時間のかかる読書―横光利一機械』を巡る素晴らしきぐずぐず」に関する講義だった気がする。実際私は宮沢章夫が講師をしていたときの学部に属していないので直接指南を受けたわけではないけど、そんなような曖昧な記憶がある。何が言いたいのかと言うと保坂和志との縁は結構長くからあったということだ。

『小説の自由』について何が引っかかったのか詳しくは覚えていない。

 

まぁとにもかくにも、引っかかったのかいいのだけど何故保坂和志なのかを考える必要がある。

『小説の自由』は小説と題しているがその実すべての創作に適応される事柄も書いてある(文中で作品の印象の一覧性の対比として絵画と音楽と小説が出てきていたり、適応されない内容も多々ある)。主だって作者は小説の現在の社会的地位について不満があり、それを乗り越える術を書いている。『言葉の外へ』でも出てくる表現を使えばそれは「読書という魂の駆動」ということだ。読書は情報の一方的な受け渡しでなく、作者が書くこと、読者が読むことが両輪となって駆動する能動的な働きであるということである。作中で笑ったがこれは「スポーツカーは早く走る機能を持っているが、『早く走る機能を持っている』と思いながらスポーツカーを見て満足する人間はいない。やはりスポーツカーは早く走る駆動を見せてこそであり読書もそれである」という例も作中には出てくる。

(この記事は途中です)