続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

インターネットの親密さ/語ること

kyokotominaga.com

 

とてもいい文章なのでちょっと言及したくなった。
著者の方が書いた本も図書館で調べてみた。対象年齢ではもはやない感じもするが読んでみたい。

インターネットの親密さが過剰になる、というのはよくある話だと思う。これは最近話題になった(話題になった、というのはなんかネットにはそぐわない言葉だと常々思っているけど代替が難しい。『炎上』でもないし…。『耳目を集めた』くらいが穏当なのかもしれない。全然話はそれるけど、オタクが日常で珍奇な言い回しをして「?」と反応される話を時々見る。なぜそんな言い回しをしてしまうのかというと、使う言葉のニュアンスをとらえたいという気持ちがそうさせているんじゃないかと思う。自分なんて人と話しているとそういう正確に言葉をつかえていない前置きが次々と口から出てくることがある。これはこれで冗長で結果的にコミュニケーションは失敗しているし、まずその代替の言い回しが芯を食っていることもそんなに多くない。ただ長く喋れてうれしいみたいな感情が残る。年取ってけむに巻くみたいな話し方をする人ってこういう考え方なんだろう。閑話休題Vtuberの引退に絡めて語る人も結構いる。俺はこれはニュアンス違うよねと思っているけれどひっくるめて「コンテンツの受給者が発信者と違う受け取り方をして、しかもそれが発信者の負担になってしまうディスコミュニケーション」という意味では同じだと思う。
さんざ言われているけれど生産者と消費者の間柄でブームなのは囲い込みで、オンラインサロンなんてのはもうスタンダードな方法になっている。間柄を近くする価値の功罪として記事のようなことが起こってしまう。
ここまで書いていると、つくづく自分はそういう流れに乗れていないことに気づく。
自分はいくつかの好んでいるジャンルがあり、その中で特に好んでいる人、アーティストや歌手などもいるけれど特にファンクラブには入っていない。イープラスでおすすめされる関連情報も切っているし彼らのSNSもフォローしていない(同人作家ばっかりだ)。メディアも追っかけるほど見ない。なので展覧会とかの情報を普通に見逃す。さらに言えばまずメディアでお気に入りということをしない。TwitterでふぁぼらないしYouTubeのチャンネル登録も何もしていない(勝手にお気に入りに出てくるからだけど)。ブックマークもしない。
そう思うと、自分はあまり好きなものに近づきたくないのかもしれない。765プロライブでの演者の言葉ももうご神託みたいなもので積極的に得るものと思っていない。
森博嗣の言葉で「本を読む人でその作者の情報に積極的に参加する人なんてほんの一握りだ」という言葉がある(超意訳)。それで言えば自分は一握りの方だ。ただマネタイズの観点から見るとカスである。お気に入りのコンテンツが他人に知られることに何一つ貢献をしていない。お金を落とさない。これはオタクにとってあまりよくない。いや、自分も世を忍ぶ仮の姿で仕事をしているのでわかるが社会の役にも立っていない。俺の一番の推しは東京電力なのかもしれない。でんこちゃんかわいいね。ガスパッチョはまじで推してるけど。かわいいし。ファンミ行ったし。
とにかく、この「お金を落とす」こと、もっと広い言い方をすると『第三者に伝わるポジティブなフィードバック』を行うというのはオタクのたしなみになってきている(そもそもインフルエンサーという言葉の語源を考えれば…ね)。そういうのが上手い人の後ろには人がくっついてきてそれを囲い込むと経済圏の一丁上がりなのだ。まぁこれは別の問題をもはらんでいるけれど…それは置いておいてその経済圏が持つ問題がこの記事では可視化されている。そしてこれに絡まる問題に大雑把に言えば性差が存在するというのもある。
ここまで書いておいて自分はこの問題に解決方法を見出したいわけでもなく、「わかる」と「わからない」を同時に言いたいだけなんだと感じてきた。

唐突に保坂和志の話をすると、自分はあのだらだら続く文章が好きなのだけれどそれは「わかる」と「わからない」を同時に言っているからなのかなのかもしれない。保坂和志の文章は明快な言い切りが少なく唐突な具体例も多い。だけどその思考の過程が面白い。人は考えながら「わかる」と「わからない」を断定できないのであいまいな薄い推測を重ねていく(ここでオタク喋りすぎ話をちょっと回収しておく)。その過程が人を人たらしめる。酒の席でうだうだ言っているのも人が考える過程を見たいからかもしれない。少なくとも自分は。
なんだか話がぐるぐるしてきたけどとにかくこの記事はすごく文章も良いので読んでみてほしい。この素晴らしさの前に自分は問題のへりを指でなぞってぐるぐるするしかなかったのだ。

地図飲み

ラーメンを食べたいと思って友人とラーメンを食べた。

ラーメンでくちたおなかを抱えて店を出ると、夏らしいいい気温の夜を感じた。

こんな夜はなんだかもう一杯、なんて気持ちになるけれどもご時世柄な~という思いもあり、結局コンビニで1缶チューハイを買った(友人はロング缶を買っていた)。

しかしラーメン屋付近の駅前は騒々しく、パンツ全開でひっくり返っている女性もいたりなんだか飲める気配でもなかった。ふらふらと駅の反対側に出てみると打って変わって辺りは静かだった。繁華街がないほうの出口である。

ちょうどいいと思い缶を開けると、たまたま目の前に地図があった。その駅がある市全域の地図だった。その市はお互い居住地ではないがよく利用する駅があり、また都内に車で出かける際に通るところでもあるのでなんとなく土地勘がある。なんともなしに地図を見ながら飲み始めるとこれがなかなか面白い。

「この道路混むよな」「ここってこんな南北に延びてるんだ」「この地名ってこの市にあるんだ」「その地名隣の市にもあるよ」「何かさんずいが多くて水害が多そう」「実際昔の海岸線近くでしょ」「この地名読めなさすぎる」「なんで南〇〇がここで北〇〇がこっちなんだ」なんやらかんやら

二人ともそういうの嫌いじゃないというのもあるけど、地図ってこんなに話のネタになるんだと感じた。話は違うけれど大型連休のたびにテレビではやれこのインターが混んでる、このトンネルで事故がなんて話をしているけどちょっと普段より楽しそうなのだ。ある程度の年齢に行くと道というのも共通の話題の一つなのかもしれない。

と思っているときにこんな記事を見た。

 

https://slowinternet.jp/article/mononome1_04/

 

お酒を飲まない人が夜の東京を楽しむためには何が必要か?という記事だが、中に話の「媒介」という概念が出てくる。酒の席はもちろん酒が媒介になっているが実は媒介は何でもよく、焚火などでもいいというのだ。確かにわかる。地図が媒介だっていいのだ(もちろんこの時は酒も飲んでいたが)。オンライン飲み会というのが苦手だけど、それは酒という媒介がオンラインでは弱められるからじゃないだろうか。もっとオンラインならではの、ゲームとか映画の同時視聴のほうが楽しい気がする。

 

酒以外の媒介を使った集まり、なにかやってみたい気持ちも出てきている。

 

 

ホラー映画を見てみたい

ホラー映画を見てみたい。

と言いつつホラー映画を見たことがないわけではない。ただ体系的に見ているわけではなく「仄暗い水の底から」→「ミッドサマー」みたいな感じだ。飛び過ぎである。「CURE」も入れてもいいか?まぁそんなものだ。鑑賞総数はホラー映画好きという人たちの足元にも及ばないだろう。

ではなぜ見たいと思っているのか?

それはホラー映画の意味の無さが気になるからだ。

俺はホラー映画に倫理を期待しない。むしろ倫理を超えたもの(それが人に端を発するものならよりホラーっぽい。情念とか呪いとか)が日常に滲み出てくる情景を見たい。俺はホラーのテキストは読める方で(「残穢」は読んでないけど)時々読む。凄惨な事件のWikipediaとかも読んでしまうくちだ。そうするとそこには伏線も何もあったものではない圧倒的な暴力や人智を超えた力がいっぱい出てくる。むしろ因果応報なんてされると「ちょっと今のは倫理すぎる」なんて思ってしまう。倫理観の無い暴力が突然日常に露出することがある、というのがある種ホラーの教えなんじゃないかとも思っている。

だがホラー映画は驚かせの要素があり(血とかゴア描写はまぁ…人並み程度には耐えられる)それがちょっと困ってしまう。アリ・アスター作品はそういうのが弱いので見やすい。

つまりちょっとそういう社会的な倫理や意味からの逸脱を、ホラー映画が俺に与えてくれるのでは?と期待しているのだ。そういう意味で「マリグナント」は良かったなぁ。ネトフリでみんなぜひ見てみてくださいね。FODはどこに行っちゃったんだ。まぁいいか。

新刊の反省

反省は頒布の前に言わない方がいいけど脱稿直前が一番反省しているので今書く。頒布後この文章は公開される。

 

・ゆるくかつ知っているテーマはむずかしい

今回は自分の趣味を趣味で書く無敵のテーマで挑んだ。しかしそれは難しい。よく知っているテーマはなかなか現世から逸脱ができない。俺は漫画ならではの過剰な表現が好きなんだけど(よつばとも過剰に入る)、そこに場面を持っていくのが知っている話を書くが故に難しいと感じた。あと知っている題材をテーマにすると自分の知識におもねってしまう部分がある。知っているから丁寧に描写しなきゃならない部分はあるのだけど。この辺前回(4年前だけど)が短編だったからか、どうにもガンガン話を飛ばしてしまう。親切ではない話になっている自覚はあるのでここは直したい。そういうつなぎ部分を面白く感じて書くか、話を飛ばすのを面白く感じるか。とにかく面白く感じない部分を書くのはしんどいので面白がり力を持つ必要がある。

 

・時間足らない

この本は28Pで2か月かかったが本当は時間は倍くらいあったほうがいい。以前4Pを半年かけて仕上げたことがありあれは満足して描けた。漫画はコマの連続なのでコマ単位の完成度は俺はあまり気にしないのだけど多分気にしたほうがいい。そして結構ちまちま描くのが好きだと気づいたので、なんか写真加筆するとかそういう方面もやってみたい。自然物好き。

 

・気力を続かせる

気力というのはこだわりのことでこだわりのない絵を見返すのは辛い。今回の新刊もやはりそれがある。そしてこだわりを捨てると初心を忘れるのでなんのためにやってんのかわからんみたいな事態になる。どうせこうなるのでせめて初心を忘れず気力を保ち続けたい。そうすると作業が本当に嫌だしなんなんだになるので気力を持つ。モチーフを保ち続ける。そこにこだわるということをやると見返しても過去にここを頑張ったぜという小さな胸が張れる。胸は張ることが大事。あるなしは関係ない。

そしてすべての趣味においてこれは大変。映像もだよ

 

・かわいくかきたい

女子を描くので。かわいいはいいものだし。俺はかわいい絵を描くのが(絵全体という見方もある)下手なのでなんとかがんばりたい。特に漫画は表情の変化を描けるコンテンツなので、表情を色々描きたい。それは感情の動きを映すことで、それはストーリーを作ることなのだ。ストーリーを描きなさいね。

 

なんか本描いたら満足するかと思ったけど、まだしないようだ。そしてその満足感はもう本を出すだけでなく中身に至っているということだろう。もう少しずっしりとしたこだわりを持って制作をしていきたい。

C100感想

コミケの感想。別に会場には行ってないのだけど、その行っていない理由が突発的だったのでで急遽売り子を友人たちに頼むこととなった。まぁ今回は個人誌と別に友人主導の合同誌もスペースでは委託頒布しており、結果的に合同誌の主催がスペースにいることとなって良かったと思う。

イベント後、個人誌の残りと合同誌の分け前を受け取った。その際に友人たちから初めてのコミケの感想を聞くことができた。良かったとのことだった。確かにコミケレベルのイベントの一般入場前というのは一平方メートル辺りにおける作り手の密度が随一に高い空間となる。その空気が良かったという。確かにそれはとても良くてリアルイベントの参加動機の殆どはそこだろう。なんかこう、肌感覚でわかることを改めて他人の口から言語化されるのは良いことだった。次のイベントに向けて、頑張ろう。

あとがきのあとがきの端書き

C100に出るあとがき合同本に寄稿した。

この本に私はあとがきを書いたので、そのあとがき…いや、「端書き」を書こうと思う。それは宣伝のためであり、もう一つはこの本が私にとって「語りたくなる本だった」からだ。

あとがきとはなんだろうか?あとがきは物語ではない。物語はその前のページで終わっているからだ。とはいえエッセイでもない。あとがきの内容の虚実について読み手は判断ができないからだ。本編の終わりのあとのコンテンツと思うと、他媒体で言えばカーテンコールというものもあるが、劇の最後に再度幕が開き出演者全員が肩を並べて観客にお辞儀をするあれは作者のメッセージではない。音楽のライブでもセットリストに組み込まれているアンコールがあるが、あれもおまけみたいなもので少し違う。

あとがきとは作者と物語と読み手の三角関係の間にある空白地帯だ。この時あとがきの大きさはヘロンの公式を利用することで、

あとがきの面積={(作者と物語の距離)+(読み手と物語の距離)+(作者と読み手の距離)}÷2

で求められる。

各要素の距離が遠ければより肥沃なあとがきが得られる、というのは直感に反しているように見受けられるがそれはあとがきをコミュニケーションと捉えているからだ。あとがきは独立した主体として存在する。

物語と読み手の距離が遠い場合を考える。読み手は遠い物語に食らいつき読了しその遠さに胸を踊らせる。そして最後あとがきでその遠い物語の端緒が作者本人によって明かされる時、そのあとがきは読み手にとって今後物語を思い出す際のキーとなり、豊かに感じられるだろう。

物語と読み手の距離が近い場合、あとがきの内容は既知のものが多くなりふーんくらいの理解にとどまってしまうかもしれない。

そう考えると寄稿した私はこの本に集められたあとがきを十全に楽しめたとは言い難い。なぜなら私は主催者側であり参加者との距離が近いからだ。もちろんそれでも参加者のあとがきは個性的な三角形を各々作り出し、原稿が出揃った編集作業では「容疑者Xの献身」よろしく天井に様々な三角形が見えるほどだったという(本当の主催さんその節はお疲れ様でした)。

しかしこの本を会場で手に取る皆さんは違う。あなたと参加者の距離は限りなく遠い。その時この本は真価を発揮するのだ。ぜひページを捲ってあとがき自体の面白さ、そして語られぬ物語の遠さを感じてほしい。

願わくばあなたと作者と物語の作り出す三角形がチグリス・ユーフラテスに広がる肥沃な三角形をも超えて、豊かになることを期待する。

【告知】C100でます

こういうことになりました。よろしくおねがいします

※8/13追記

諸事情でサークル主不在の頒布となりました。