続けてもいいから嘘は歌わないで

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夜を歩く

 

大月駅に終電で寝過ごして来てしまった方へ。始発を待つ方法はコレ! | SPOT

 

こんな記事が話題になっていた。さまざまなメンションで色々な終着駅の情報が得られて、日本の終着の多さが身に染みる。そして夜歩くという行為へのそこはかとない憧憬も。

 

自分も終着駅へ乗り過ごし、歩いて帰った記憶がある。また初詣に行くために県をまたいで神社へ歩いたり、さわやかのハンバーグを求めて浜松をさまよったりしたこともある。大体において歩くのが好きなのだ。移動手段として好きなのは徒歩と自転車、次いでバス電車と来て飛行機だ。

 

何故歩くのが好きなのかと聞かれると、登山家よろしく「そこに道があるからだ」と応えるだろう。世界は道で満ちている。道満ちている。世界に延びた毛細血管の末端を常に僕らは歩いている。その血管の絡まりは世界を覆うテクスチャであり面である。その面を感じられるのが徒歩の一番の魅力だろう。特に夜は堪らない。冬の夜が良い。得体の知れない物音と部屋から漏れる明かりと、国道を走る車が照らす風景は昼間のそれと一線を画す顔をしている。キリンジのエイリアンズに歌われる「まるで僕らはエイリアンズ」の世界だ。

 

昼間も良い。知らない街の昼間はよそよそしくも懐かしい。知らない人達が知らない生活をしている中歩く違和感。行きつけのタバコ屋が、よく見るおばさんが、有名な辻が自分には初めてなものだと言う優越にも似た感情。そこから見える自分との共通項はどんなナショナリズムよりも鮮烈に残るだろう。

 

本当の世界は観光地ではなく、その辺にあるものなのだ。観光地をつなぐバスの待合室に貼られた読めない地名の路線図や、車窓から見える雪原にポツンと建つ小屋や、仕事の外回り中ふと目にした公園で遊ぶ子供のようなその集積が世界である。世界を丁寧に拾う行為が歩くと言うことなのだ。

 

好きなゲームに、異国のグーグルマップにランダムに飛ばされ、どこかもわからぬまま彷徨うゲームがある。自分の時は北米五大湖の近くに飛ばされたのだけど、その看板の文字を読むことや植生を見ることと言った細かな観察行為は今でも覚えている。おそらく知らない世界はこんなにも美しい。アイマスのShiny Smileでだって「宝箱を開ける 事の本当繰り替えし」と言うような宝箱はその辺にあるし、その身近な宝箱は夜の近所なのかもしれない。

 

枕を捨てよ、街に出よう。