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オタクは脱落するものか

オタクは脱落するものなのだろうか。

年を重ねる毎にオタクはオタクをやめる/やめない論を様々な形で話題に挙げる。友人らと会っても必ず『我々はオタクだろうか』という話をしている。ネットの上でもそれは変わらずそこらかしこのクラスタで行われている。時には『オタクやめます』なんて宣言する人もいる。これに一貫して言えるのはこの話をする人が全員、オタクはやめられると思っている事である。当然やめられないものに辞めるやめないの話をする意味はないからだ。しかしどうだろうか。オタクはやめられるのだろうか?

結論から言えば、俺は無理だと思っている。

 

オタクをやめるというのはどういう状況か考える為にはオタクを定義しなくてはならない。何かについての良書は常に何かの定義から始められる。そしてオタクの定義というのは様々であり掴みどころがない。つまり以降の話が掴みどころのない話になるのは必然であり俺の思慮の足らなさに起因するものではない(この期に及んで言い訳をするな)。

 

オタクをやめる、という言葉の不思議さは「やめる」は自動詞なのに「オタクをやめる」に包括される行動は全て他動詞、他人に観察される行動だという事だ。例えば「絵を描くのをやめる」がそうである。

あるオタクが絵を描いていて、Twitterで人気を博していた。それがある日突然絵がTwitterにあがらなくなる。これは「オタクをやめる」の典型的な例である。しかし、もしかしたらそのオタクはTwitterに絵をあげないだけで自分のために絵を描いているのかもしれない。この場合、オタクはやめていないと言えるだろう。SNSの時代に顕著だが、「やめる/やめない」が「見える/見えない」と同一に扱われることは往々にしてある。

 

そして俺はオタクの定義は見えないものだと思っている。オタクは志であり、物理的心理的に関わらない物事への運動の仕方、働きかけ方かオタクだと思っている。これは目に見えないが確実に『分かる』。この点においてオタクにはジャンルが違えど互換性があると思っている(時々特定のジャンルを別のオタクエリアに持ってくる遊びが成立しているように)。

この定義でいけば、オタクは顕在化せずしかし人の生き方に大きな影響を与えるものだ。何せそれは思考に及ぶからである。つまり一度オタクになったものは、成果物を出そうが出さまいが在り方としてオタクであり続ける。我々は運命の黒い糸で焼豚の様にぐるぐるまきになっている。

 

だからというわけではないが、時々思いを馳せたりもする。かつてネットで繋がっていた人々、今はもう連絡を取れずなまじ成果物が耳目を集めていたためもうオタクでないと呼ばれてしまう人々が、その生活の端端でオタクで在ってしまう瞬間を。どこまでもオタクは続いていく。

だから時々戻ってきても良いとも言える。インターバルを空けてオタクに帰ってくる人だって沢山いる。脱落、辞めるなんて言わないでオタクで在り続けてくれと思うのである。ただオタクは続いていく。