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保坂和志を読むこと(途中)

保坂和志の著作がここ数年断続的に人生に関わっている。

というのも、最近保坂和志『小説の自由』を読んでいてこれはかなり面白く人生の一冊となりうるぞ、と興奮していた時「いやこの著者の本読んだことあるぞ」となりよくよく考えたら2、3年前に同じ著者の『遠い触覚』という本を読んでいた。そしてそのときも同じように興奮していたことを思い出した。

人生で全く気づかずに同じ著者の本に別角度から到達するというのはなかなか稀有で(もちろん意図して著者買いするということはあるけど)、ここで『何故保坂和志を読む(読んだ)のか』ということを考える必要があると感じた。その核はここ数年の自分を悩ませた問題にかなり近接しているのではないかと考えられるからだ。

 

何故読んだのか。それはインターネットで見かけたからだ。ここ数年、あまり本屋にも行かず図書館にも行かず、Twitterばかり見ている(良くない)。そしてTwitterには時折言葉の断片が流れる。それはネット記事だったり刊行物だったり個人の言葉だったりする。そして言葉の断片は断片では意味をなさずその文脈において言葉を発揮するという事は馬鹿じゃないので私にもわかる(これは攻撃的な文章だ。大学教育の一コマめで言う『一次資料に当たれ』に意味は近い)。言葉の断片だけを流すキュレーターアカウントに用はないのでわ引っかかった言葉の断片があったらその都度元ネタを探すようにしている。その中でたまたま保坂和志の文章があったのだ。そしてそれが2度起こった。これが何故保坂和志を2度も読んだかの真相である。

では何が引っかかったのか、まず『遠い触覚』の方から紹介する。

 

fktack.hatenablog.jp

リンク先が全てだけれど(リンク先の保坂和志に関する文章はだいたい全部良い)、この遠い触覚というのは「インランド・エンパイア」という映画を延々と見てそれに関する事が延々と書かれている。「インランド・エンパイア」を見ていなくてももちろん面白いけど見たほうが面白いと思う。私は見ていない。そして、記憶が正しければ『遠い触覚』を私が大学のときの講義で取り扱ったことがある。そしてそれはこの、1つの作品を延々と見て語るという方式についてのことだった気がする。きっと宮沢章夫の「時間のかかる読書―横光利一機械』を巡る素晴らしきぐずぐず」に関する講義だった気がする。実際私は宮沢章夫が講師をしていたときの学部に属していないので直接指南を受けたわけではないけど、そんなような曖昧な記憶がある。何が言いたいのかと言うと保坂和志との縁は結構長くからあったということだ。

『小説の自由』について何が引っかかったのか詳しくは覚えていない。

 

まぁとにもかくにも、引っかかったのかいいのだけど何故保坂和志なのかを考える必要がある。

『小説の自由』は小説と題しているがその実すべての創作に適応される事柄も書いてある(文中で作品の印象の一覧性の対比として絵画と音楽と小説が出てきていたり、適応されない内容も多々ある)。主だって作者は小説の現在の社会的地位について不満があり、それを乗り越える術を書いている。『言葉の外へ』でも出てくる表現を使えばそれは「読書という魂の駆動」ということだ。読書は情報の一方的な受け渡しでなく、作者が書くこと、読者が読むことが両輪となって駆動する能動的な働きであるということである。作中で笑ったがこれは「スポーツカーは早く走る機能を持っているが、『早く走る機能を持っている』と思いながらスポーツカーを見て満足する人間はいない。やはりスポーツカーは早く走る駆動を見せてこそであり読書もそれである」という例も作中には出てくる。

(この記事は途中です)