続けてもいいから嘘は歌わないで

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開かれた内輪ネタについて

昨年末にM-1グランプリが行われた。中身は縦置き、M-1の後は毎回友人と3時間くらい配信で感想戦をする習わしとなっている。これは配信ではあるが他人に聞かれることをあまり想定せず、思うがままに真剣に喋るといいものである。これはハッキリ楽しい。大変オタク的イベントだ。

配信をした後にふと思ったが、ここまで一つの事象に言及をしていることはもはや自己表現ともとれる。お笑いファンがM-1を斬る、的な表現として成立する内容ではあったと思う。そして俺も友人も全くそう思ってはいないのだが、この習わしが楽しいのはこの開かれたことを良しとする世界で、非常にクローズドな思いで話をしているからではないかと思った。

上手く言えないが、双方向のメディアとしてインターネットが普及する中で(特にSNSがそれを加速させているが)インターネット上すべての物が自己表現である、みたいな価値観が醸成されてきたと思う。iPhoneのCMはやたらと映画を撮らせようとしてくるが、あれはiPhoneで撮った何気ないホームムービーも映画のような表現として成立しますよ、みたいなことをウリにしている例である。

そしてその全てが表現であるという前提が我々をクリエイターたらしめるみたいな好きなことして生きていく的な言説を生む。そしてその前提は表現に対する表現をも成り立たせるようになる。雅に言えば返歌とか。しかしクソリプに代表されるように表現に対する表現は芯を食わずにクソなことが近年露呈してきている。しかし自身のインターネット上での活動を表現とするならクソリプも表現なので同じバリアで守られたものとなる。よくTwitterで貼られる『あいつは言った。僕は怒った。それで終わり』というパーマンの一節である(キテレツだった気もする)。

かつ表現はそこへの芯を食ったリプライを期待するものとしても位置づけられる。すべてのクリエイターは褒めてくれないと死ぬ、みたいなハッシュタグが年がら年中Twitterを騒がせている。

ただそもそもインターネット上のものはすべて表現なのか。『おなかすいた』というツイートに『あなたがおなかをすかせている間にも飢餓で子供が死ぬ』とリプライすることは良いことか、または『おなかすいたなんて空腹感を6文字で、さらに全部ひらがなにする事でなんとなしのゆるさをもたせるツイート、オレでなきゃ見逃しちゃうね…』とリプライが来て嬉しいのか。それは違うのではと思う。全てを表現とすると、旅先(旅行ブログ)や食事(食レポ)、睡眠(睡眠時間バトル)など生活の一部がどんどん表現となり「もっといいとこ行けよ」「ジュース飲んでんじゃねーよハゲ」「糞して寝ろ」など様々な声が寄せられるようになる。最悪のトゥルーマン・ショーである。

この相互関係が張り巡らされるインターネットでは開かれた内輪ネタ(オープン・クローズド)とでも言うのか、反応を期待しない表現みたいなのが一定数必要ではないだろうか。第三者からはどう見えたっていい。個人がそう思っていれば良いのだ。それが精神の安寧にも繋がり、ちゃんとした狙った表現をする際の重石にもなってくれるんじゃないか。

ちなみに内輪ネタというと

お前たちの内輪ネタを教えろよ。 | オモコロブロス https://omocoro.jp/bros/kiji/221366/

という記事がとても好きなのだが、これはまさに反応を期待しない表現の行き着く先ではないかと思う。ちなみに自分が属する内輪ネタでは「固有名詞にティニをつけて発言する」というのがあります

 

まぁとにかく、何でもかんでも表現とすると肩身が狭くなり肩甲骨に良くないですよということだ。そういう表現がバズってこそだろうが!とか言われたらそれはもうおしまいですが。