続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

どうでもいいの地平線

norishiro7.hatenablog.com

考えるに、ジーコの「いや、あいつはきちんと笛を吹いているよ」という発言を支えていたのは、ジェンダーに関する知識や配慮や思いやりや道徳心などではもちろんなく、そんな些末なことに気を取られる暇のないほど真剣にサッカーへ取り組む気持ちでしかなかったのだろう。

ブログを読んでいて、ここがぐっと来た(乗代さんのブログはどの記事も面白い)。

ブログ内ではこれがゲイ(っぽい)審判に対する話として出てくる。ジーコがそんな審判を試合に対する態度できちんと評価したという話を乗代さんは「それは道徳心などではなく一つのことに打ち込む際のすごみがそうさせている」と言っている。

社会が平等というフラットな形を目指す(とされている)中でそのフラットさを実現させるのは思慮だけではなくどうでもいいという諦観だったりもするのではないかと思う。

Twitterで「女性の店員さんばかりに話しかけてくるおじさんがいる」みたいな話題を定期的に目にする。この話が大嫌いだ。もう本当に勘弁してくれと思うのだけれど、それは俺が女性目線で『本当にそういうのは困るよね』と優しく寄り添っているわけではなく、普通に『ひえ~こわ。ちかよらんとこ』と思っているだけだからだ。仮に俺が店員でおじさんからでもおばさんからでもいいがそんなことされたら『この人はそういう謎のコミュニケーションしか取れないんだなかわいそ』と思ってしまう。何より知らない人から話しかけられたくないし。イヤすぎる。そういう主観的な気持ちでこの問題を考えている。その場に居合わせても止めるなんてできないだろう。こういうとき俺は優しくない。

あと街で髪とか蛍光色で虹色の服を着ている女性や、ゴッスゴスの服を着て日傘をさしている女性または女装の人を見ても俺は『イケてるな~』と思う。ただそれで『古い価値観から脱却してるな~』と思うわけではない。人の心を読むフェミニストがここで俺に『女性の自分らしさを尊重できるんですねあなたは!ステキ!旗持って青山通りを歩こうぜ』と言われても『こわ~』と思ってしまうだろう。何より知らない人から話しかけられたくないし。

 

進歩的な社会を目指しているという運動に否定的でもないし少し肯定的なくらいというスタンスはある種の諦観によって成り立っている。社会全体が当事者なんだという気持ちを持て、と社会問題に対しては言われるけれど、そういうことを言われるとしょんぼりしてしまう。俺の方で『女は産む機械』といった人を殴っておけばいいだろうか?そういうことでもないと思う。しょんぼりする。やんなる。は~ぁとなる。そういう諦めに似た思いで日々のニュースを見ている。