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社会学はどこから来てどこへ行くのか(1)

たとえばマイノリティであるとかマジョリティであるとかっていう問題は、社会の分割や境界線、特に非対称的で不平等な分割についての問題なんだけど、その分割を、私たちはふたりとも「実在する」と素朴に信じている。(中略)でもこれって、明示的な定義をしたりあるいはましてや、その境界線を恣意的に引き直すひとに対して、批判したり説得したり、ということが意外なほど難しい。

 

だから、ものすごい抽象的な全体のマクロ構造の問題を、すごく具体的なそいつ本人の身体に、ガッと引きずり落としてきて「連帯責任があるんだよ」っていうのは、本来は自分が負わなくていい責任を負わされているだけ。それはそうとしか、そいつは思わないだろうと。

社会学はどこから来てどこへ行くのか」第二章ではアーティストがセックスワーカを差別的に扱ったという問題からアーティストの「マイノリティ憑依」ヘ話が繋がり、マイノリティとマジョリティの境界は何かという話へ展開していく。マジョリティは「意識せざるとも持っている者」とされる(そうなる背景に文化資本とかも語られるが本人の意思でそうなっているわけでないので、「意識せざる」)。理解しなくてもいい、見なくてもいいというのはマジョリティの特権だが、マクロ的な問題、例えば沖縄に米軍の基地があることは本土にも責任がある、を扱う際「マジョリティは本土に住む日本人だ」と言われても本土にいる人間は被害者意識を持つだけだ。という話が行われる。残念ながら、そう思ってしまう。ちょっと前の日記でもそんなことを書いた。本の中では痴漢被害における男性と女性という例も出てくる。そこで「責任はシェアされるか」という話に、一章の最後に出てきた「隣人意識」という言葉がドラマチックに登場する。「シェア出来ないが、その責任への理解、問題への理解を通じて問題を抱えている隣に立つことができるんじゃないか。」

これはとてもロマンティックな考えだと思う。このあとここに矛盾する話に文脈はドライブしていくのだが…恣意的に切り取ると社会学はそういうことができるのでは、と著者である岸は考えている。

まだ途中も途中だがとても好きな場面だったので書いておきます。