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社会学はどこからきてどこへ行くのか②

https://twitter.com/kasai_sinya/status/1516250369294479360?t=R2lwTjYLygTQKOm4lb8lXQ&s=19

 

自分の生来の感情は理性や倫理より主観的である、という旨だとツイートを受け取った。おそらく理性や倫理が『正しい』というのは「ファクトフルネス」以降世間に特に流布している考え方で俯瞰して物事を長期的に見れば『正しい』理解を得ることができる。という世界への見解と言えると思う。

そうだろうか?という話が「社会学はどこから来て〜」に出てくる。

岸和田市を母集団にしてサンプルを調べると。そこから推定できるのは岸和田市のことだと。それでたとえば「日本人は」って語っちゃうと言うときに、本当はまずいんだけれども、それをまんな言っちゃう

特定の母集団を研究して得られた『理解』はあくまで母集団の域を出ず(中範囲と文中では表される)それが社会全体に通じる理論や方程式にはなりえない。それは社会学が異なるもの同士の比較をやっているからというのもあるが、この代表性の問題は経済学や心理学にも当てはまり結局無数の母集団内因果が集積しているだけなのではないかー、という話だ。これは岸が「意味がないんですけど」という前置きを繰り返しつつ述べており筒井は「人的リソース上研究を通して触れられる母集団には限界があるので、その何を代表とするか、は研究者のひいては社会学全体の相場観でいいのでは無いか」と意見している。この相場観というのを文中では『正しさの外部化』と表現していて冒頭のツイートが示すのはまさにこれだと思う。人が所属する集団はそこまでバカではなくそこで集積された知はおそらく正しい…

しかし集団がそこまでバカではないという前提はインターネットでかなりぶち壊れている。言論は間違おうと合っていようと集団内で無限に拡散していく。

冒頭のツイートをカウンターとして捉えるとカウンターの先は「自己責任論」じゃないだろうか。自分で判断したからあなたが悪い、をいやいやこれは外部理論に基づいての判断なので…と返せる。ソース出せ論法への対抗策だ。文中では(この文章はツイートを出汁に本の感想を書いているだけなのだ)自己責任論の解除についても語られる。

我々は知らないグループをよく「悪魔化」している。(中略)そこを研究者が媒介して「いや、あんたたちがこっちの方に住んで生活をしていれば同じような考え方をするんだよ」みたいなことを示せるか

社会学が自己責任を解除する、しかしそれが行き切ると責任はどこに帰属するのか、それを研究の中で留める、その相場観を外部に委託する事に社会学の限界ではないか…。

ここから話はまた二転三転するのだけど、ツイートから湧き出た話題はここでおしまいです…。一応通読したのでもう一回何か文を書きたい。