続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

物語を「~ポルノ」と表現すること(「虚構」に「現実」をみること)

表題のことに対して俺は反対を表明する。一言でいうと「ばーか」と思っている。しかしこれは射程が大きい話であることも確かだ。この問題に類するものを最近インターネットでよく見る気がする。だからこの問題に議論や言葉を尽くす必要があると思っている。なのでたらたらと未練がましく書こうと思う。

世の中には物語があふれている。それらは大きく2つに分けられる。「虚構」と「現実」だ。虚構/現実という区分は「視点」に置いて考えられる。「虚構を見ている物語」「現実を見ている物語」。表現を変えれば「虚構を表したい」のか「現実を表したい」のか、そういう意味で物語を大別したい。

と言うと創作実話とか嘘松なんてものはどちらにするべきだろうか。今はそれらも現実に含めたい。創作実話は「実話を元にしたフィクション」だ。これは「虚構を表したい」のか「現実を表したい」のかどちらだろうか。もちろん後者だ。「現実がこんなだったら良いのに」というのが創作実話の表したい部分だ。「この創作面白いですよね?」は表したい部分ではない。

大別しておいて急だが、「虚構」は「現実」を内包することがある。「現実」の問題点を「虚構」で示すこともできる。しかしこれは「虚構」の意味をも「現実」に還元することではない。「虚構」はあくまで「虚構」だ。この構造はレイヤーとして考えられる。「現実」は存在している物事なのでレイヤーを複数持つとは考えにくい。「虚構」は複数のレイヤーを持つが、一番表層的な部分は「虚構」だ。

「現実」でも「虚構」でも物語には考察が行われる。深掘りというやつだ。そして「虚構」に対する考察では先程出てきたレイヤーを文字通り深掘りして、対応する「現実」のレイヤーを露出させることがまま行われる。それは良いと思う。しかし物語を物語として摂取する際にまず見るべきなのは「虚構」のレイヤーだと俺は思う。まずはそこを見るべきなのだ。「虚構」の物語には「虚構」である意味があると思うからだ。

今言った『「虚構」に対応する「現実」のレイヤーを露出させること』の最も下卑た形が表題の『物語を「~ポルノ」と表現すること』だと思っている。それは一足飛びに「虚構」の意味を「現実」に置き換えさらにそれが低俗な形で行われていることを指す言葉だ。言い切ればまともな人間が使う言葉ではない。

 

ふたりの告白 - 西瓜士 / 【コミックDAYS読み切り】ふたりの告白 | コミックDAYS

 

なにをそんなにぷりぷりしているのだ、と言うとこの漫画にそういうコメントが付けられていたからだ。この漫画はすげー良くて絵もいい。しかし性とか難病とか難しい問題も扱っている。でもそれが良い部分でその題材でこの爽やかさを出せることがすごいのだ。これは「虚構」のすごいところで正しいことも正しくないことも描けるってことなのだ。それを安易に「現実」に置き換えて『こんなうまくいくわけないやん』『難病ポルノだ』みたいなことを言うのは…冒頭で「ばーか」と言ってしまっているが…上品に言うと『「虚構」を楽しむのが下手ですね』と思う。人には向き不向きがある。仕方ない。現実が得意分野なんだろう。現実オタクは現実へおかえり。分かれて暮らそう。

まぁ話を戻して、「虚構」を「現実」のレイヤーで見てしまうのはまぁ仕方ないことでもある。だって俺たちは「現実」で生きているからだ。「虚構」の物語で美味しい食べ物が描写されれば以前食べた美味しいものを思い出してしまう。これを持って『「虚構」は「現実」ありきやんなぁ』ということは簡単だが、やはりそうではないと思う。みんな人生において大事な「虚構」があると思うからだ。その大事さは、「虚構」が「虚構」であるからこそ「現実」を超えて真に迫るものを表現しきれる、という証左になっていると思うからだ。この具体例をあげるのは難しい。ただモナリザに今でも人が群がっていることを思えば…そういうことなのだ。

先程考察の話をしたが、これも最近良くない感じがしている。考察というのは意味付けでありパフォーマンスなので、結果が過激な方がウケが良い。そうすると行き着く先は「ポルノ」なんて言い方になるのだ。

本当はもっと長々とグダグダ書くつもりだったけど息切れしたのでこの辺でキーボードを置く(筆を置くを現代風に言おうとしたが、こう書くとキーボードを持って書いているという誤解を生みそうだ。キーボードは水平で丈夫な机の上で使うのがおすすめです)。書いていて思ったが、やはりこれは自分の感受性の核の一つなのかもしれない。良いエピソードを書いておくと、自分は「レッドウォール物語」という動物たちを擬人化した小説が子供の頃好きだった。この小説にはリスとかネズミとかが木の洞にある家でコケモモのケーキとかを食べるのだけどそれがやけに美味しそうなのだ。いま大人になってまだコケモモを食べたことはないしそんなのよりあまおうが美味しいであろうことは何となく分かるが、俺はまだコケモモに憧憬を抱いている。これは「虚構」への憧憬でもあるのだ。