続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

三面図を想像する

最近スプラトゥーン3をやっている。主にサーモンランというゲーム内ゲームを中心に友人とわいわいやっている。このわいわいというのとか、ゲームというコンテンツについての距離感には別途書きたいことがあるがそれは置いておいて。

あるコンテンツにはまるとその絵が描きたくなる。同人を嗜んでいるから。なのでスプラトゥーン3のサーモンランのイラストを描いてみることにした。初めて描くのでまず資料を見てみる。

は????むっず、いやかっこいいけど前作に比べて格段にディテールが多いしなんだよこれこんなん描けないよ~、と言いつつうーうー描いていく。で2時間くらいかけて何とか完成してみると…不思議なことに『わかる』ようになっている。

この『わかる』というのはある一方向を見て脳内でその物体を回したり展開できたりできるということだ。もちろんその結果を腕を介して出力するのは別の技能なのだけど、まぁ脳内では理想の構図が作れるという状態になったということだ。それまではゲームを何時間プレイしても全く構造が理解できなかったものが2時間手を動かすと途端に理解できるようになる。これは絵のいいところだ。

で、話は飛んでこの『ある一方向を見て脳内でその物体を回したり展開できたりできるということ』は別に絵を描く人の専売特許ではなく誰しも近いことをやっている。道を歩いているときなんてそうだろう。人は国内のあまり知らない観光地に到着しても、なんとなく歩き回ることができる。東京の人が大阪に行っても道に迷うかもしれないが歩き回ることはできる。それは周りの風景を見て、それを立体的にとらえて「ここの道は右に曲がれそう」「この建物の裏にはまた道があるだろう」という予測を行えるからだ。これが軽度に行えないと道に迷いやすくなり、極度に行えないと一歩も動けないということになる。そんな極度にできないことがあるかというと、海外がそうだった。

始めてイタリアに行ってミラノ駅から街に出た時、誇張でなく歩けなくなってしまった。もちろん現代なので映画やテレビで海外の街並みを見たことはあったが、現実に行くとやはり違う。建物の意匠も違うし道の伸び方も違う。少し街並みを見ていると慣れてきたが、それでも宿に向かいながら建物を触って「あーこんな感じか。ブロックはこういう大きさなのね」「こういう風に道がつながることがあるんだ」と確認していかないと道をたどることができなかった。何しろ建物の裏側がどうなっているか想像できないので、角を曲がるたびに新ステージが出現するのだ。あれは今思い出してもいい快感だった。もっと近代的な街並みなら違ったのかもしれない(その前に上海に行ったことがあったがそこではこんなことは起きなかった。あそこは都会すぎるので)。以降はなんとなく海外の街並みに慣れているのでそんなことはなかった(ベネチアはすこしあったが)。

つまり人は多くのことをなんとなく経験で予測しながら生きているということだ。その既成概念を壊すのは難しいが気持ちいい。多分公園でスケッチをしている人もそういう思いでやっているんだろう。みんな軽率に知らないものを描きましょうね。私は肩の構造がまだわからないので、模写していきたいと思います…