NOPEを早稲田松竹で見た。NOPEはすごく面白い映画で見ている最中最高にワクワクさせられたのだけど、劇場を出たときにすべてを思い返して…なんというかゾクゾクした。映画の構成、そこから受け取る感情自体が計算されたものでありスリリングだったからだ。
NOPEはメジャーを志向したアマチュアリズムの映画だ。ある僻地に未知の飛行物体が訪れ、悪さをする。主人公兄妹はその飛行物体をカメラに収めることで一攫千金を目論見、色々な人々と協力して飛行物体の撮影を試みる。はたしてこの作戦はうまくいくのか!?飛行物体とはなんなのか!?…というのがすご~く単純化した映画のあらすじだ。パンフレットにもあるけれどこのあらすじはまさに古き良き『未知との遭遇』式映画の構成だ。主人公が葛藤し、協力者が現れ、作戦が立案され実行されて少しのミスが露呈してピンチが訪れ最後は大団円…これはメジャー映画における鉄板の展開であり、実際みている最中はドキドキワクワク、ラストの仕掛けにはよっしゃー!と開催を叫びたくなった。ラストシーンも黒人が馬に乗っている映画史上2番目によかった(1番はジャンゴ繋がれざる者)。
しかしこの鉄板の展開はどうにもざらついている。構成は万人受けするメジャーなものなのに、所々人を食ったような異化された要素が物語には配置されている。それを俺はアマチュアリズムだと感じている。
アマチュアリズムとメジャーという言葉を俺は相反するものと定義して使っている。あちらが立てばこちらが立たずというようなことだ。メジャーであることは万人受けして面白いけど角が立たないという意味だ。ドラえもんとかジャニーズ主演のドラマとか未知との遭遇とかそういうものだ。反してアマチュアリズムというのはマニア受けして熱狂できるけど尖っているみたいなことを指す。ドロヘドロとかバカリズム脚本のドラマとかNOPEとかだ。
アマチュアリズムが作品に染み出ている時、それは作り手の隠しきれない癖とも言い換えられる。NOPEの監督ジョーダン・ピールはメジャーな構成の中にいくつもの癖(この場合それは『問題提起』だ)を仕込んでいる。登場人物の造形(ハリウッドで黒人、アジア系がどう扱われてきたか)、視線の対比、極めつけは作中作として語られる猿の起こした凄惨な事件だ。というかこの映画はその凄惨な現場から始まっておりマジでこの場面は震えるほどいいのだけど、中盤でさらに凄惨なシーンが挿入される。死体をもてあそぶ猿が生き残った子役にだんだん近づいてくる。最後にスクリーンには狂気の宿った猿の両目が大写しになる。ここは本当に怖い。そしてこのシーンはメジャーではありえないシーンだ。CERO指定の問題とかではなく、このシーンは明確に万人受けの逆を目指して演出されているからだ。と、確信できるほどの嫌さがこのシーンにはある。
アマチュアリズムは称賛されるべきものだ。自分もクリエイターの端くれの突端にいる人間なのでアマチュアリズムが大好きだ。何なら自分の作品の拙さをアマチュアリズムと言い張っている節がある。現代で大量の良作に押し流されないためにはそういうよすがが必要なのだ。で、受け手もこのアマチュアリズムを理解したがっている。アマチュアリズムは完璧ではないものに宿るので、それを理解できたということは自身が少し偉いということになるからだ(後方腕組彼氏面できるってことです)。
このシステムでNOPEを見ると、「こんなやばいシーンがあるけど俺的にはOK。更にこの映画は隠喩に満ちていて俺は満足…好(ハオ)…」と思ってしまう。正直自分は思っていた。中央座席足組み彼氏面だった。
しかし物語がクライマックスに差し掛かるとそんなことは忘れてしまうのだ。魅力的な登場人物が明確な作戦を立て、最高の音楽とともに主人公が馬で荒野を駆ける!その時俺は金曜夜ポップコーン食べ食べ子供面をしていた。映画って最高!楽しい!!
で、エンドロールを見た後に思い出す。この映画メジャー的な満足度はすごいけど、劇中のあれやこれやってアマチュアリズム的企みに満ちてないか?なんだこの新しい見た後の気持ちは?俺のために作られたような、かつみんなに見てほしいような…。この2つの要素を、靴がたまたま地面に垂直に立つように際どいバランスで配置しているのがNOPEのすごいところだ。
様々なコンテンツにおいてメジャーとアマチュアリズムの言い換えは存在する。商業漫画と同人誌、大作ゲームとインディーゲーム、A級映画とB級映画…そのどちらもにも独特のいい部分があり資本面はさておき全体的なスコアで言えば比べられないほどだ。しかしそのいいとこどりを目指して、高い水準で実現してしまったNOPEという作品は今後様々な作品の一里塚になるのではと思う。
という感じでおすすめです。もう一回IMAXでやってはくれないか。