続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

決めつけを押し付けるのは良くない

物事に『正解』を出したがる人がいる。そういう人は物事を見て「〇〇って△△かも」と思ってその後何らかの形でその考えを判定する(本人に聞く、ネットで調べる)で、「〇〇ってやっぱ△△だった。良かった~」と安心を得る。

良くないと思う。
何故良くないと思うのかというとまず物事に正解はないからだ。『絶対なんて絶対ない』みたいに言えば『正解って正しくない』と言える。そして更に、仮に物事に正解を設定した時、それが第三者から見ても正解であるという担保はない。クイズだったら純粋な知識で〇×を判定できる。誰から見ても日本で一番高い山は富士山だ。しかし目の前の人に「あなたってモテそう」と言う時、その担保は存在しない。100人に告白されても「上には上がいるんだろうな。モテたいな」って思う人もいるし、告白されたことが無くても「俺が美しすぎて誰も告白なんて恐れ多い行為ができないんだな。モテすぎるのも罪だぜ…」と思っている人もいるかもしれない。
この時「あなたってモテそう」という発言は正解ではなく思い込みだ。相手はあなたが勝手に設定した設問に対し回答を迫られ、あってたらしたり顔をされて間違っていても「意外~」とか言われるのだ。なんだよ意外って。事実なんだから意外もなにもないわ。お前の思い込みが少し間違っているだけだぞ。あと「ちょっとミスったわ~」くらいの声音で意外って言うのやめろやその自分へのダメージを最小限にするためのチョケた声音を。
閑話休題

つまり簡単に言うと「思い込みを押し付けるのをやめましょう」ということだ。目の前の人物はあなたが好き勝手パーツをはめて完成させるパズルではない。もっと厚みのある人間なのだ。もちろんこれは人間だけの話ではなく創作物や商品、すべてにこの原則は適用される。
そしてこれは考え方の問題にはとどまらない。話法の問題でもある。この話法を多用すると人や出来事に「〇〇って△△かも」という推論をぶつけて〇×ゲームをし続ける話し方しかできなくなっていく。この話法の弱点は推論により自分の思想が外部にばれること(能あるタカは思想を隠すと言う)と隙あらば自分語りと思われることだ。この推論〇×ゲームは自分の思っていることを並べるだけで成立するので、対象となる事物のことを何も気にかけなくても続けられてしまう。一見質問が多いので深堀りしていると見せかけてその実ただの価値観開陳タイムというわけだ。

例えば漫画の話題で「女性の描いた漫画は会話が不自然。全部自分が話している気がする」というコメントがあった。まず作者が女性かどうかは不明だし(男性が女性風のペンネームを使うこともある)、作品の瑕疵に作者の性別は関係が無い。作品を読んで得られる事実は「会話が下手な漫画だな」だ(これは『不特定多数の前で物事を明確に貶すな。言ってもnotformeくらいにしろ』という話ではなく貶し方がフェアじゃないということだ。まぁあえて書くと、嫌いをnotformeと言い換えてもそれは第三者のための行動で、あまり言っている本人の意識改革にはつながらないんじゃないかとは思う。俺は知らない人に「殺すぞ」と言われて殴られるのと「notforme」と言われながら殴られるのの差は感じない。なんなら理性がありそうな分後者の方が怖い)。これは「作者は女性」という思い込みを使って創作物を理解する良くない例です。

また、冒頭で例に挙げたようにこの話法は人間に適用されることが多い。「見た目きつそうだけど優しい」とか。話法の亜種として、自分から「私、Aそうって言われるんですけどBなんですよ~」というパターンもある。これはBという事実よりAという事実が優先される例だ。こういうことを言う人は他者評価を得たい人なので人からどう見られているか(A)を重視していることが多い。Aを誉めましょう。でも俺はもっとこういう人がBという特性を活かして生きていってほしいと思っている。自分で自分を意外なんて思う必要ありますか?

最後にここまでうだうだ言ってきた割に自分を振り返ると、見た目と内面のギャップが無いなぁと思う。俺を知らない人が俺の写真を見てから俺の話す話題を聞いて「ギャップがあるなぁ」と思うことはおおむね無いだろう。オタクっぽいしコミケにいそうだし(内面が2個しかないのか)。実際自分も人から決めつけを行われて「全然違うわ!」と思ったことはないような気がする。これが多いとどうにも生きづらい(過大に期待されたり変なレッテルを張られたり)と思うけど、その点ちょっと得しているなぁと思う。ギャップを作るためにこれからいきなりハーレーでも買おうかな。