続けてもいいから嘘は歌わないで

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日記(水中の哲学者たち・二人称の死)

某日

帰り道、永井玲衣『水中の哲学者たち』を読み終わった。著者は哲学対話のファシリテーターであり市井の人々の哲学に対する語りを大事にしている。本書に収められたエピソードの殆どは「わからない」ということで、対話のテーマへ言及しようとしてもつれる言葉や延々とテーマの縁をなぞるような言葉、市井に溶けていくなんてこと無い言葉たちを著者は丁寧に拾い上げる。

哲学対話はケアである。セラピーという意味ではない。気を払うという意味のケアである。哲学は知をケアする。真理をケアする。そして、他者の考えを聞くわたし自身をケアする。立場を変えることをおそれる、そのわたしをケアする。あなたの考えをケアする。

第一章の最後にこんな文がある。

私は自分の人生を自分で選ぶことが出来る。それと同時に、他者との、世界との関わりの中で私は考える。不思議なことに、両者は対立しているようでゆらぎながらつながっている。

私は祈る。どうか、考えるということがまばゆく輝く主体よ確立という目的だけへ向かいませんように。

なにか結論めいたものがある訳では無いがこの本の問は常に開かれている。その向こうから知らない世界の風が吹いてくるような読後感だった。

 

yoi.shueisha.co.jp

と、著者のことを調べていたら東進の小論文の講師らしい。こんなに哲学対話をやっている人が映像授業という一方的なメディアに出ていて結構ハキハキ喋っているの、ちょっと面白いな…(コメント欄もなんかあっはいって感じだしな)

youtu.be

 

友人とのdiscordサーバーにChatGPTのbotが実装された。Bingの順番待ちをしている身なので色々聞いてみる。粗があるけど面白い。そしてこの粗がいよいよなくなったらどうなってしまうんだろう。

 

某日

そして『水中の哲学者たち』にシャンケレヴィッチという哲学者の言葉が出てくる。

彼は、他ならぬこの「わたし」の死を一人称の死、「誰か」の死を三人称の死、そして「わたし」に対してありありと感じられる「あなた」の死を二人称の死と、それぞれ分けて特徴を分析した。

たまたまなのだけど、親族の葬式に参列した。葬式は故人の無宗教で行われ、棺を中心に椅子が円形に置かれた形で式は進んでいった。まだ葬式の経験があまりないので正直葬式という儀式を自らと遠いところに据えている感覚があったが、無宗教のそれは最低限の形式はありつつも色々と遺族による遺志の汲み取りが反映されていてまさに二人称の死を感じられるものだった。

亡くなったのは女性で、喪主は夫が務めた。夫は式の最中静かに悲しそうな顔をしていて詳細をはなすことはなく喪主の挨拶も短いものだった。故人と最も多くの時間を過ごしたのは間違いないのに。式が終わると故人は荼毘に付される(無宗教なのにこういう言い回しは宗教と密接に関わっているのだと思う)。その間の精進落し中、夫は妻との思い出を少しずつ語り始めていた。それは親族に向けてではなく、家族ぐるみで付き合いがあった仕事上の関係の人に向けてだった。

俺に今からこんな葬式の状況は想像できないけれど、もし自分がこの喪主の立場だったら自分から能動的に思い出を語ることができるだろうか?と考える。多分できる。なぜならブログをこうして書くような人間だから。でもここで残された夫は俺の知る限り昔気質の仕事人間で家事を一切やらない人だった。そういう人が個人の思い出をまず語り始めるのが仕事仲間だったというのはなんだか、胸に来るものがあった。親族ではない、そういうことが語れる相手って大事なんじゃないか。

それを皮切りに精進落しの最中は故人の話で盛り上がった。人が本当に死ぬのは残された人に忘れ去られたとき、なんて言い回しがあるけれどそのとおりだと思う。変な話、この時故人を最近で一番いきいきと感じられたかもしれない。二人称の死という言葉の奥深さを感じた。