続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

日記(怪談・アンコントローラブル)

某日

渋谷の怪文書展の予約が取れなかった。
代わりじゃないけどカクヨムでホラーを読む。

https://kakuyomu.jp/works/16817330652495155185
こういうモキュメンタリー形式のホラーはホラーのお家芸的な感じがするけれど、情報を小出しにすることで読者は情報を理解してつなげなければならず能動的にホラーに入り込んでしまう、かつその能動的に入り込むことが作中の登場人物の行動とオーバーラップし加えて作中のホラー条件(「お前たちは知りすぎた」)的な演出ともかみ合うのでとてもいい形式だと思う。実際面白いし。
友人らの通話で偽ラジオをやる。音声メディアって時々やりたくなるけど自分から発信するほどのあれじゃないんで結局な~という気持ちがある。でもこの認識は時代に即していなくて、音声メディアのプラットフォームは俺の範囲外にもたくさん存在して思ったより多くの人がそこで活動をしている。そして彼/彼女らはコンテンツの発信でなく雑談や垂れ流しと言ったことをそこで行っている。垂れ流しという言葉は上手くて、発信ではないというニュアンスを上手くつかんでいると思う(テキストだとチラ裏というのもこういうニュアンスがありいい)。
この垂れ流しと俺の思う発信の違いを、今俺は説明ができない。
例えば垂れ流しは自分本位の行為で発信は受け手を想定した行為だとかも言えるのだけどちょっと違う気がする。明確なのは、俺は垂れ流しはできないなということだ。あんなにTwitterやってるのに。
でも俺は自分の家で料理をしながら雑談配信なんてやらないだろうし、旅行先で撮った動画を編集して字幕付けてアップすることもしない。この違いはなんなんだろう。俺はこれを人の器の大きさかもと思っている。つまり垂れ流せる人は自分の生活の一部に他者を介在させられる器がある人なのだ。俺が同じことをやったら料理をするたびに垂れ流し配信のことが脳裏をよぎって嫌になってしまうだろう。キャパが小さいのだ。
もう一つ言えばコントロールの問題もある。音声メディアで言えば伝達手段は声ということになるが俺は声に自信が無い。より正確に言えば無頓着だ。腹から声を出していない。意識して声音を変えられない。つまり声は俺にとってアンコントローラブルであり褒められても貶されてもあんまり感情の振れ幅が無い。技術がそこには無いから。Vlogなんて身体とか顔も出ちゃうわけでアンコントローラブルの極みみたいなものだ。
そんな中で俺はTwitterもブログも平均値を大きく超えて更新している(これは日本全体の平均値を踏まえた発言)。
なぜなのかというとこのテキストというのが、俺にとってコントロールしやすく多少なりとも技術のたまものであるからだ。技術があることはモチベに繋がり評価への渇望にもつながる。このサイクルが俺にテキストを書かせている。テキストなら思う存分たれ流せる。
だから時々見かける「この人声を/表情を/身体をコントロールしているな…」という人たちは夜な夜な垂れ流し配信をしているしカップルチャンネルでvlogをあげているかもしれない。それが彼らにとってキャパを食わず技術がある自然なインターネットとの接続方法だから。
なので友人らとの無駄な画像・音声・動画データ(旅行・ゲームetc)はよほどのことがないと流出しない…と思ってていいですよね。