続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

記憶の反芻で重なる時を生きる

『記憶の反芻をやめろ』みたいなツイートを見た。趣旨としては嫌な記憶を脳で反芻することが癖になると何事も新しいことを始められないからとりあえず現実を見て生きていこうぜみたいなことだった。元のアカウントはそういうライフハック?みたいなものを発信?しているアカウントで(書きぶりを見てわかるように俺はこういうものをライフハックを発信している、と認めていない)ふーんと思った。大筋ではこの考えに反対だ。まあこのツイートの言わんとする記憶というのは悪い思い出でフラッシュバックを防ぐみたいなことなのかもしれない。それはそれで大事だけどだから記憶を過去を今に重ねるなというのは無理がある。記憶とか過去とかによってしか今起こっていることは差異を産まない。現実を現実のまま見るだけならレンズでも鏡でも出来ることで、人として生きるということは今を見続けることではなくて複層的な時間のレイヤーを重ねてなお今を進むことだと思っている。そもそも記憶は過去に限らずフィクションのものだったりもして自分の記憶には他人によって獲得されたものだって含まれる。ならば複層的なというのは時間軸だけでなく主体にも及ぶもので、私は私の人生を、複数の時間と主体によって感じている。

ということを思っていたところ、NHKで『拝啓』というドキュメンタリーがやっていた。これはアンジェラ・アキが歌う『拝啓この手紙〜』という、15の手紙?ちょっとタイトルが思い出せないけどそういう歌を学校で歌った子供が15年後に再会し当時の自分に手紙を書くという番組だった。今30歳の男女がそれぞれ当時のつらかった事とかを振り返り、当時の自分にそれが無駄ではないこと、意味があることを手紙で伝えていく。見ながらこれこそ『記憶の反芻』だなと思った。しかもこれはただの反芻ではなく過去に意味を与えるものだ。因果は時系列で語られることが多いが、人生はそれすらも逆にできる。今を原因として過去に結果を生むことが出来る。こういうことって冒頭のツイートとは正反対の立場になるだろう。冒頭のツイートが取るコントロールできるもの(未来)に注力しアンコントローラブルなもの(過去)は忘れる姿勢は自己啓発的でもある。今日を頑張った者にだけ明日が来る。しかし今日の頑張りは過去を報うものでもある。目的を設定し努力する形でない達成がそこにある。

重ねて、小泉今日子が新聞のコラムで「いま自分が頑張ることで過去の自分を報う事ができる」みたいなことを書いているというツイートが反響を呼んでいた。これもまさに過去に意味を与える反芻だ。手紙の例もそうだがこういう考え自体は特に目新しくはなくて色んな道徳的なことがこういう思想の下動いている(思い返せばそういう過去への手紙とかも学校で書いたような)。でもそういうものは忘れ去られて、ライフハックなどという効用がある形で反響を呼ぶ。逆に効用があるとされなければ反響は呼ばないのかもしれない。

いずれにせよ記憶の反芻は意味があることだと思う。思えば自分はほとんどを記憶の反芻で生きてる気すらしてくる。加速し続けコミットを求め続ける社会で自分という輪廻に意味を与える行動をする意志というのも尊いと思う。