オードリー・タンのインタビューが面白かった。フェイスブックなどが登場した時、人々がそれを公共の庭だと勘違いしたことが問題の始まりであり、デジタル民主主義は数千人から二万人ほどの規模で意思決定する際に有用である、また自身の選択がある集団の意思決定に関わるということをローカルな結びつきなどで人々は感じる必要がある──これらはデジタル、インターネットの結びつきへの期待感だ。と言いつつ、インターネットは人々の考えを加速させ妄想の域にまで引き上げてしまうから時々は直接会ったほうがいいなど地に足がついた話が展開されている。これを見ていると政治的な話のクリーンな面は人々の選択をどうやってまとめ上げ共同体の意思決定につなげるのかという話になるのだと思う。ダーティーな面というのは金である。それ以外にも移行期正義や、ゼロ知識保護など気になるワードがたくさん出てきて今後も読み返したくなるインタビューだった。
言わないという事で内圧を高めるという自分なりのテクニックがある。これを更に分解すると、今のインターネットで言わないという意思表示は存在しない。しかし意思表示には今までは考えられなかったクソリプというリスクが発生する(クソリプというコストというのは普通に新書などで論じて欲しいと思っている)。そうすると意思表示はクソリプのコストと天秤にかけられることになる。そうして表示されない意志というのがたまっていくのだが、これを天秤にかけた結果ではなく能動的な決断と捉えるとそれは自分の信じることとなるので強固になる。内圧が高まるということだ。こうして自分の内圧が高まり、へにゃへにゃだった足元が空気入れたての自転車のタイヤのようにピシッとすることが自分の尻でしっかりと座るということだ(この『自分の尻で座る』という比喩はニーチェのものらしいがどこで読んだか思い出せない)。
『女性が贈り物をし合うのは純粋な贈り物としてでなくマウント合戦としてである』みたいなツイートがあった(結構前)。まぁ、そんなことはないだろうと思うし実際違うよ!という発言がたくさん見られた。このツイートを見て思ったのは勘違いだなぁではなく、この人はそういう世界観で生きているんだなということだ。この人は色んなことにマウントという力関係を見いだして生きているのだと思う。だから他人の行動にマウントを見いだしてしまう。悲しいことだ。別のところで『友人に彼女/彼氏ができるとぽっと出の人間に親友を取られた気持ちになる』という文を見たことがあってシンプルに俺はそうはあんまり思わないなと思った。多分こういう発言に共感する人は友人に少しの彼女/彼氏感を感じているんだろう。同性でもそういうことってある。これは独占感とも言い換えられるかもしれない。同じケースで自分が思うなら「選択したな~」だろうか。これは同質感と言い換えられるかもしれない。ともかくこうした無邪気な決めつけが世界観を露呈することってままあって、そこにつけ込まれると異様に怒られるなという教訓があった。問題は無邪気な決めつけが面白すぎることだ。
トランプ大統領が誕生して以降アメリカってどうなってるんだという気持ちが大きくてそういう記事を読んている。
https://roles.rcast.u-tokyo.ac.jp/publication/20241023
しかしそのどうなんだという気持ちはこういうインタビューなどを見ているとちょっと変わってきている。どう考えてもアメリカが克服しようとしている、そしてトランプが克服をぶち上げている問題というのは日本でも随所に見られるものだからだ。たまたま日本にはトランプがいなかっただけで、いたとして、それが理性で抑止できるとはあまり思えない。抑止というのも変な言い方で、選挙の俎上で吟味できるかは怪しいと言わざるを得ない。いわく物価の高騰、いわく多様性への"疲れ"みたいなものは毒ガスのように低い土地に溜まっていっていて誰が火種を投げ込むかという話に他ならないように見える。特に日本の政治は党派性に左右されるからそうなっていないだけで多分そのうち党派性は解体されていくんじゃないかなと思う。その時に"強い"個人を選ばない理由がないんじゃないか。
というようにツイートには収まらない長さで時流への文を書くと良いなと思った。ブログとしては微妙だが。