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プロセス

 

「正義」とは、競合しうる善構想どうしを調停し、であり、である――これが、ロールズが提唱する「正義」概念です。

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第2回│「正義」の模範運転とジョン・ロールズ│朱喜哲 | [Edit-us]

『公正を乗りこなす』第2回にこんな1節がある。これはあくまで「正義」という言葉に関しての1意見だが、主語を置き換えても通用するような考え方ではないかとも思う。

人々が「何か」を調停し合意に至った状態において実現するもの。そのための手続き。プロセスこそがそのものであるという発想は愛とか、勇気とか大きい概念においても成立する定義ではないか、逆に言えばそういうプロセスとしてしか理想的な概念に対して人はアクセスできないんじゃないか。

相対主義は科学の発展で人々に根付き、インターネットで何かを言うと「うちはうちよそはよそ」や「ソース出せよ」的な意見が必ずといっていいほど噴出する。しかしこの主義は大きい概念と反するものではない。例えば「ソースはないのですが…」みたいな時に「ハイ論破おまえは正義ではなくただのカス」とはならない。「正義が行われなかった」と考えることができる。そもそも「俺は正義だ」というのはおかしい。正義は手続きなので。「ここでは俺が法律だ!」というのも法律は不平等に公正を期すため調停の正義なのでおかしい。

正義感、というのはあくまで感なのであくまで正義ではない。そうなると理想である正義は自分また他人に内面化することはできず、自分や他人、我々という単位が正義という状態に至るというのが目指すべき道程となる。その道程は批判によってなされるのではなく話し合い(継続される会話)によって踏み固められ漸進していくものだ。

そうなると少しだけ時分が小さく、かつ大きくなったような気持ちになる。私は正義にはなれないが、正義を調停するために「公正」であれる。ならなくてはならない。