続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

物語における地獄

ゴールデンカムイの展開が地獄」というブログを見た。中身は省略するが、この「地獄」という言葉、及びその使われ方には個人的に興味がある。ブログの内容を圧縮すると「そこまで地獄か?」というエッセンスになるだろう。そしてその回答は地獄は雰囲気ワードであり(よくオタクが一万年寝過ごしているのと同じである)ブログ内における地獄と煉獄の区別とかはどうでも良いのだろうと思っている。

 

地獄性について

ゴールデンカムイの地獄性は、まず人が死ぬ事である。話の中では主要な、単行本の表紙を飾るようなキャラが死んだりする(もちろん名もなきモブはもっと死ぬが、モブが死ぬ事で作品を地獄と呼ぶ人は少ないだろう。モブ厳という言葉はあるが)。いきなり話が逸れるが、女性向けジャンルにおいて死ネタというのは一定の広がりがある…と思っている(ここら辺は現実と乖離している可能性があるが、『死ネタ注意』という注意書きを見ることがぼちぼちあり、つまりそういうことだと思って文を続ける)。死ネタは重要人物の死によって展開する話全体を指すと思われるが、話が展開するなら死んでもいいじゃんと思う。死んで話が展開しないというのはマジで最悪なのでそれは注意だが…、話が展開するのであれば死は題材になるしそれでしか描けない話というのはあるだろう。

つまり「意味がない死」というのは地獄だが、「意味がある死」はありだと思うのだ。ゴールデンカムイにおける死はほぼほぼ意味がある。登場人物の抱えている過去の清算だったり、望みに向かうための行動の結果として死という展開を選ばれているだけなのだ。凄惨な清算(激ウマギャグ)が行われてその過程が地獄のように見えたとしても、キャラクタに必要であればそれはやっぱり必要なのだ。

翻って、これを上手くやれるのはフィクションだからかもしれない。現実における死の物語化はあまりに死の現象としての威力が強すぎて忘れられてしまうし、他に面倒くさいことが色々あるからだ。死ネタ、地獄という形容が成されるのはフィクションの強みでもある…かもしれない。

まぁゴールデンカムイ面白いから読んでくれますか?今なら無料だし…

名付けの力

https://twitter.com/chocolatechnica/status/1435602405144420359?s=19

上のツイートを見て、最近西野亮廣You Tube動画を見たことを思い出した。そこではもうひとり別のそれっぽい人がいて、なんか対談していたり互いにあげあったりしていたけど、そこで「俺は/あの人はこういう潮流に名前をつける役目を果たしている」という発言があった。名前をつける役割とは。

しかし名前というのは強力で、それは簡潔な要約であり、道具である。物事に名前をつけられればつけた人は第一人者となり、全てをリードしていく立場になれる。アーリーアダプターの一歩先はそこにしかない。名前は偉い。

でもそことなんとな~く、インターネットの「上手いこと言ってやった自慢」は似ている気がする。なんだか容易に受け取りづらい感じがしている。

そこへのカウンターかどうかはわからないが、最近はすでにある言葉を深く掘る方向の本を読むようになった。良し悪しではなく、今はそんな気分だということなのだ。

 

理由

自由主義を生き、個人が尊重される時代に生まれた私達は自分を探してさまよっている。

自分探し、なんて言葉はもう古いかもしれないけれどそれはセルフマネジメント、とか名前を変えて延々と人間を苦しめている。

自由である為には自分を持たなくてはならず、それには理由が必要だ。オンリーワンでブルーオーシャンである、理由。価値という言葉を使うのも流行りだ。あなたは価値がある人間か?裏を返せばこの言葉はコスパに通じる。コスパよく、価値を手に入れる。バズる。

滔々と書き連ねてしまったけれど、やっぱり自分を理解することが求められている。そしてそれにはとてもとても疲れる過程が必要だし、マジでやってられない。

そういうとき、大多数に所属したいと思う。「大きい理由」を得たいと思う。

自然とか、歴史とかそういうのにやけにご執心の一派はこういうところから生まれるんだろう。 

 

ここまでつららーーっと書いてみたけどまじでオチはなくてかつなんか薄っぺらい言葉の連続になってしまった。ありゃりゃ〜。やっぱり忙しいとダメだ。大事なことを平易に言葉で長々と書く体力がなくなってしまうから。

身体

身体の躍動がよく行われる時期に突入した。

かなり様々な動きがあり、最適な判断と的確な体捌きがあわさると身体はエモーショナルな領域に達する。それは凄いことだし、良いパフォーマンスは伝播する。観客を熱くさせる事ができる。

 

だからこそその土台となる舞台のなんとも言えぬ気持ち悪さが際立つようにも思う。人は文脈を読む生き物なのでこの時期のかなり前や直後にあったゴタゴタを個人の身体と結びつけようとしてしまう。しかしその結びつきを軽々と個人が超えていく気持ちよさもまた得も言えない。

 

いずれこの時期を思い出してきっと考え込んでしまうだろう

映画大好きポンポさん大好きさん

ポンポさんを見たか?見ていないのなら見たほうがいい。全国で30館くらいしかやっていないらしいが、これから2倍位に増えるようだ。このペースなら1年後にはポンポさんの上映館は日本国内の神社仏閣の数に比肩する数になっているだろう。街中でふとした時に見られるかもしれない。でも、今はそうではない。能動的に動き、見に行くべき時期だ。

 

(以下の文章には映画大好きポンポさん原作及び映画版のネタバレがまだ含まれません)

 

映画大好きポンポさんとは、WEB漫画を原作とするシリーズである。なんと原作が無料で読めちまうんだ!

www.pixiv.net

実際の主人公は映画大好きジーンくんなわけだが…ともかくも映画という創作にとりつかれた人間の業とか、その思いの強さを描いたこの漫画はオタクに刺さりまくり、かのFRENZのプレゼントとして複数贈呈され、続刊が出て、スピンオフが出て、この度映画化された。

紙書籍版を持っている身としては、そして趣味で映像的なものに足を突っ込んでいる身としては見逃せない作品であり、満を持して見てきたというわけである。

 

 

(以下の文章には映画大好きポンポさん原作及び映画版のネタバレが含まれます)

 

感想から言うと…良かった、し、泣いた。

 

◯映画制作映画をアニメとしてやってしまうこと

この作品のキモは映画作成映画であるということでそれは映像研に手を出すながアニメ制作アニメであることに近い(SHIROBAKOはアニメ制作アニメというよりお仕事(アニメ制作)アニメなので毛色は少し違うと思う)。その『映画である』『映画として見られる』という点にかなり自覚的で、何なら挑発されているとも思った。作中作のレイアウトを変更するところから始まり、OPシークエンス、いじられた時系列、洒落たトリッキーなトランジション(カットのつなぎ目を俺はこう呼ぶ)、ギャルの尻…。原作オタクはここでグッと来てしまう。過剰なまでの『映画さ』、オカズ山盛り定食のようなサービスカットでお腹はいっぱいだ。加点式のオタク評価は既に0を省略する値に到達している。

 

◯テーマ性の変化

ポンポさん映画版が原作から大きく変化した部分は、後半の編集をするというシーンが大きくフューチャーされているところだ(企画の初期段階でもうここは決定したらしい)。後半、ジーン監督が行う編集の切るという行為、作中作「マイスター」の指揮者が抱える悩みと過去、ジーン監督自身の好きなことに打ち込む事による周囲との断絶がオーバーラップして描かれる。

最終的に「映画は誰のためのもの?」という問いを契機に、マイスターとジーン君の人生が重なり、「自分は(ややこしいが、ジーン君も指揮者も自分の創作物に全てを捧げているため映画=ジーン、指揮者=音楽、のような図式が語られる)何なのか」という問いに決着がついたりする。まぁここは本当に新テーマだ。原作のジーン君はマジで狂っていて、そこに理由の片鱗はあっても全ては明かされない。そして理由もなく映画に狂っていると言うことをある意味良しとするのが原作の雰囲気で(映画内にも夢と狂気の世界という言葉がある(というか、これ夢と狂気の王国ネタ?))その原作の雰囲気を丁寧にトレースしている映画前半と新テーマが描かれる後半でテンションは少し違う感じがある。

とはいえテーマとしては骨太だしここからの後半の話はかなり良くまとまっている。マイスターという作中作を魅力的にするという意味でもすごく良かったと思う。作中作がちゃんと描かれるのは嬉しいよね。あとこの編集のシーンで編集マンが語っている監督が凹んだ話ウケたのでパンフさんも買いましょうね。

 

◯新キャラ

アランくんが出てくる。どんなやつかって?好きな映画が↓こんなやつです

解釈一致過ぎる。

アランくんもテーマを広げるという意味ではとても良い働きをしてくれている。いいやつだし。

 

◯挿入歌

俺は許そう。だがジーン・フィニが許すかな!!

 

 ◯好きなシーンいろいろ

・ポンポさんが変なレイアウトで入ってくるとこ全部

・マイスターの脚本見たジーンくん、驚き方が女の子過ぎる

・ナタリーがベッドでもぞもぞするとこエロい

・ナタリーがポンポさんに見初められて、驚きから喜びまでを走りながら表現するシーン、マジでいい

・マーティンさんが役に入り込むシーン、分かっていても良い

・原作のキメのシーン、マジでいい

・編集シーン、もっとキーボードショートカットを俺も使わなきゃな

・授賞式でナタリーが泣いてるのが好きです

 

◯ポンポさんは我々に何をさせてくれるのか

端的に言えばクリエイター賛歌であることは間違いない。映画版ではクリエイターだけでなくクリエイターの周り、また作品を見る人たちにもその賛歌の一端を授けてくれたけども、やはりポンポさんはクリエイター賛歌だ。フォーカスが大事だ。『幸福は創造の敵』だ。

(というかクリエイター賛歌にするためにポンポさんが存在しているということもある。映画パンフではポンポさんは「プロデューサーという概念」、つまりクリエイターのクリエイト以外を一手に引き受けている。ポンポさんがクリエイト以外の雑事を処理してくれているからクリエイターが作中では光り輝く)

でも、俺は必ずしも『幸福は創造の敵』とは思わない。幸せになれればそれでいいじゃんとは思っている。その手段が創造じゃなくたっていい。でもポンポさんワールドはもう行ききった人間しかいないので、そういう場合はもう『幸福は創造の敵』だ。

最初の方で『趣味で映像的なものに足を突っ込んでいる』と書いたがそういう意味でこの映画は行ききっていて、深淵だ。とてもここまではいけないと思わされる。

でも趣味をやっているときスケールは違えど同様の悩みを抱えることがある。双肩には何も載っていないのに完全にやられてしまうことがある。そんな時に思い出せるのがこの映画だ。この映画はそんなときもう一度机に向き合わせてくれる。

願わくば創造が幸福であるように。

 

 

 

TinyDeskを聴こう

TinyDeskという番組を知っているだろうか?NPBが制作している音楽番組である。その名の通り、狭い机の上で少人数が生演奏をするというコンセプトの番組だ。現在ではコロナウイルスの煽りを受け、ミュージシャンがリモートで演奏をしたり通常の場所ではないホームスタジオみたいなところで収録をしていたりする。扱うジャンルは幅広く、メジャーどころ(BTSとか)から実験的音楽(ブルーマンとか出てる)まで様々だ。世情にも敏感でブラックミュージック特集とかしてくれる。助かる。

動画1本あたり15分~30分という程よい再生時間ということもあり、ここ2年位この番組ばっかり聴いている。おかげでYou Tubeのホーム画面がこればっかりになっている(まじでYou Tube、サジェスト機能がすごいせいで情報がタコツボ化しがち)。

日本で生活していると海外の音楽にはあまり触れる機会がなく、例えばYou Tubeで最も再生されている動画はスペイン語圏の音楽だってことを知らずにいたりする。それを知ったところでスペイン語の音楽を聞く人は少ないだろう。

正直TinyDeskのおかげで結構海外の音楽に触れる機会が増え、助かっている。Tom MischとかAnderson Parkとかもここから知ったし…。音楽を色々聞けるのは本当にいいことだ。

というわけで個人的なお気に入りをいくつか貼ってみようと思う。俺はインターネットでブックマークをしない主義なのでこういうことをしておかないとログが取れないというのもある。

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これはかなりいい。ジャンルは…ヒップホップ?ちょっとよくわからない。ポエトリーのように語ってる感じもある。でも全部心地よいし歌ってるお姉さんが楽しそう。それが一番大事。個人的のこのグループのYou Tube上のベストテイク

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グループ名にメキシコって入ってるのでメキシコです。ボーカルのお姉さんがちょっとエロくていい。コメント欄にもそう書いてる人がいっぱいいる。セットリスト全体的に早かったり遅かったりして緩急があるので楽しい。

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めちゃおしゃれ音楽。Spotifyでも落としました。というかこういうブラックミュージックぽいのがザクザク掘れるのが助かっています。

 

なんかこう音楽に対しては一生疎いな、みたいな気持ちがあり軽いコンプレックスでもあるんですがまぁそれはともかく色々聴いていきたいなとは思っています。

 

 

 

生理的欲求

上坂すみれがこんなことを言っていた。

『アルコール、9%なんてのを飲むと体内のアセトアルデヒドが分泌されてるのが感じられるじゃないですか。臓器が反応しているというか、そういう時生きてるな〜〜って気がするんですよね』 

 

意訳にも程があるが大意は合っていると思う。あまり酒に強くないというのがあり分かりかねるところもあるがこの言葉が好きだ。こういう生理的欲求というのは様々に存在する。

例えば『涙活』なんてものもそうだろう。涙は感情の表現であり結果だが、涙を流したいというのは生理的欲求だと思う。涙が流れる理由(泣けるような物語、泣けるような演出)を得たいのでなく、結果としての涙が欲しいのだ。

サウナもそうかもしれない。汗を流すというのはデトックスとか色々効果があるかもしれないが、結局そんなものはどうでも良くて汗が流れているという状況、生理的に体が反応しているのを楽しんでいるというのが大きいのではないか。

何故生理的欲求が起こるのか、それはあくまで生理的なもの、発露しても仕方ない、言い方を変えれば許される欲求だからではないか。現代社会で発露が許される欲求というのはそこまで多くはない。涙なんてものも一つ間違えれば『女の武器』なんて言われたりもする。そんな中で許される発露として汗とか涙とか酔うとか、そういうものが求められているのではないか。これは「生理的だからさ」という甘えでもあるが、甘えが許される親密な関係性を誰しも構築しているとは限らない。

ここまで書いて、サウナに行きがちな自分を振り返ってみるとあまり良い感じがしない。なのでここでおしまいです