続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

日記(インターネット断食・DISCO DISCO DISCO)

某日

インターネットが使えなくなる。ルーターがだめになったらしい。FRENZ最終提出の翌日の出来事だった。危なかった。とりあえずほうぼうに手を尽くし20日後に工事が来ることに。インターネット断食だ。

某日

虎ノ門ヒルズPerfumeの展覧会とそのDJイベント「DISCO DISCO DISCO」へ。tofubeatsとパ音がPerfumeを流す機会なんて、逃せないぜ。駅から虎ノ門ヒルズに向かうと全く居場所がない雰囲気に愕然とする。何か食べようとしてもファラフェル屋さんしかない。あえなく外に出てビリヤニを食べる。開場時間になるので会場に向かうとやけに無機質なエレベーターホールに驚かされる。ここで働く人がいるのかよ。いざ45階に上ると東京の夜景を眼下に見下ろすロケーション。こういう場所もあるんだな…と謎の歯ぎしりをしながらグッズを買ったりして、いざ会場へ。展示自体も大変面白く、本人がいないとこに本人の影を映す様は不自然すぎて自然だった。あとイベント直前なので普通に演者が展示室にいてドキッとする。

いざDJが始まると、それはもう最高だった。一つ一つに言及はできないけれど、自分がGAMEを聴いてから幾度となくPerfumeを聴いてきた時間が、ライブで踊ってきた時間が走馬灯のように蘇るような幸福な体験だった。多分に俺はPerfumeにクラブ性を求めていたのかもしれない。あとDJでしかありえないブートレグがかかるとみんなスマホをかざしていて、俺は踊ることしかできなかった。それこそが優先されることだし。あとPerfumeイベントなのにtofubeatsのグッズを身にまとってる人も多いのが印象的。しかしそれを超えてPTAの皆さんはすごいのでどんなにBPMが挙げられたスウィートドーナッツでも振り付けを手の先で完全再現していた。というか四割くらいがどの曲も踊れてるのなんなんだよ。そんな素晴らしい夜の後は終電とのバトル。荷物を途中駅のコインロッカーに入れたため大幅に時間ロスしながらギリギリ帰る。ばったりと寝る。


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勝手に感動するということ

https://comic-days.com/episode/2550689798900338673

 

 

甲子園の小遣い超人を扱ったこの回、甲子園に行って開会式のみ見て試合を見ないで帰るという奇行がドキュメンタリーの筆致で淡々と説明されると面白いのだけど、途中作者から放たれる『この人選手で勝手に感動してるんじゃ』という言葉があまりにも重い。だってフィクションに熱狂するオタク(俺)なんて、知らない人が勝手に書いた架空の人物の生い立ちに泣いたりしてるわけで勝手に感動しているにもほどがある。俺こそが小遣い超人だと言いたくもなる。しかしそう思うと『勝手に』感動することがこんなに変に思えるのがそもそも変で、勝手でない感動って何なんだよみたいな事を考えてしまう。

この話題はオリンピックでもよく取り沙汰される気がしていて「感動をもらったってなんだよ」とか「すでに名声を得ている人が得意分野で頑張ったからってお前に関係あるのかよ」とかいうインターネットシニカルな方々の意見を余年に一回見ることが多い。ともすればペットの映像に声を当てるというのもこれに近くて主題である犬猫に勝手に意味付けをして泣いている意味がわからないという構図は甲子園のそれと近いとも取れる。

つまり俺が俺以外の事象に心を動かされた時、それはマジの感動、感情の動きと言えるのか。涙活に代表されるようにそれは偽りの感動で、事象の主体(甲子園で言えば選手たち)に対しておこがましい行為ではないのか?ということだ。

結論、俺はこれをおこがましいとは思えない。甲子園の開会式で得られるのはマジの感情である。なぜならこれを否定するとマジの感動という答えのない問いが生まれてしまい、答えのない問いは答えを探究する糸口として価値があるが、断罪の道具にはなり得ないからだ(マジの感動があるとすると、俺は小遣い超人を嘘の感動を甲子園からかすめ取った罪で断罪しなくてはならない)。

と言ったところでこの小遣い超人の凄みは全く失われない。一般的になんでこの行動が変であるとされるか。それは感動の主体との距離が遠いからだ。超人と甲子園球場間には全く関係が構築されてないのに泣けてしまう。その感受性がすごいのだ(そう思うと編集者ってのもかなり適性ある気がする)。何かしらの関係が構築される間の感動は特に変ではない。フィードバッグという報酬系がそこに産まれるかもだから。つまり全く知らない縁もゆかりも無い人に感動できることは凄いことで、ここまで来るとおもむろにステーションバーという言葉が浮かんでくる。小遣いバンザイって関係のない人々の間に生まれる感動の話だったのかもしれない。

まあとにかくマジの感情なんてなくてあるのは全てリアルの感情なので蔑ろにせず、しかしその距離は図っていきたい。そして個人的には遠い関係に感じる感動こそ尊いと思ってしまう。

あと神戸スパアンドサウナは良いサウナなのでマジで宿泊にはおすすめです。

日記(ハッピーバースデー・作業・アンチラジオ)

某日

朝立ったまま靴下を履こうとしたらギックリ腰になる。情けない。腰に痛みを抱えながら出勤前に薬局で湿布を買う様は幽鬼のごとき。誕生日より年を取った気分になる。ハッピーバースデー俺。

某日

作業

某日

作業。夕方に外に出て、ディスカウントストアで爆買い(700円)。

某日

帰宅後作業がままならず早く寝て朝に作業。偉すぎる

某日

作業を終わらせる。

某日

作業終わり祝で銭湯へ。湯船でボーっとしていると人が生活の話をしていて、久々に時の流れを感じる。みんなかけがえのない時を生きているというのに俺ときたら腰が痛いのに座ってタイムラインをいじっているだけだった。むしゃくしゃして中の飲食店でカレーうどんにタルタルチキン南蛮を乗せミニ天丼まで頼んでしまう。トドメはペプシコーラ。結果腹は爆発し、終わる。大体カレーうどんにチキン南蛮乗せて何になるってんだ。単品で食べても同じだよこんなん。己を呪いつつ岩盤浴へ。20分で出ようとしたらイベントが始まりまりなんか40分くらい入ってしまった。水分が体からなくなりからっけつになる。ダメ押しにシャワーを浴びて自転車で帰路に。適当に漕いでいたら道に迷う。迷うついでにテンションが上り、一人で滔々と語るアンチラジオを行う。これは己の人生をフィクションの素材として見るログ文化へのアンチテーゼとしてログを取らないくせに主張をする謎の試みである。これが行き着くと子どもが見てはいけない何かになってしまうと言われる。しかし心は満足。帰って寝る。

 

日記(てんや・春あかね高校)

某日

突然てんや欲が湧いてくる。てんや、大学の近くにあったから10日にはよく行っていた。日付の割引といえば1日の丸亀製麺より10日のてんやだ。しかし最近はとんとご無沙汰になっていた。気になり始めるとあの甘さに全振りしたタレや、さつまいも天の薄い衣に歯を突き立てる感覚や、美味しすぎる柴漬けで頭がいっぱいになってしまう。退勤後行けそうなてんやを調べるとあまりの店舗数の少なさに驚く。そしてあのてんやが当たり前にある生活は当たり前ではないのだと泣けてくる。泣いていては揚がるものも揚がらない。帰路の途中でてんやに寄る。

柴漬けがカウンターにないなと思いながらタッチパネルで注文。店内は静かで、吉野家とかすき家でオリジナルのラジオが流れている状況に慣れてしまった自分にはありがたい。なんで牛丼食べながら「朝牛丼食べるとその日もう1回牛丼を頼むと安い」という情報を聞かなければならないのか。耳だけでお腹いっぱいだ。それにしてもこの時代に上天丼と小そばにさつまいも天をつけて1000円というのは格安だ。普通の天丼600円もしないし。凄すぎる…と思っていると母体がロイヤルホストでおなじみロイヤルホールディングスであると知る。ありがとう。ロイヤル。ちなみに松の家でかつ定食を食べたときもありがとうゼンショーグループと思っています。

注文を待っている間に、お持ち帰りで天丼を頼んでいる人が「あとタレひと瓶もらえますか?」と言っていた。タレって瓶の単位で買えるんだ。自分で買うわけでもないのにうれしい気持ちになる。

本当にほしかったもの

注文が配膳されていざ対面。つるっとそばをすすり、夢に見たさつまいも天にかぶりつく。あーおいしい。甘いタレがビリビリ頭に響いて食欲のギアを上げていく。せっかくそばがあるから天ざるにと思ったけど甘いタレがあるので不向き。しかしいんげんだけはいい感じだったのでそばといただく。ほたてとレンコンの食感の違いを楽しみ、裏ボスであるまいたけをがっつく。ごはんにタレを回しかけて食べアクセントに柴漬けをかじる。相変わらず旨い。味噌汁で塩分を補給してまた天丼へ……。こんな手軽な永久機関があったのかというほどにスムーズに三角食べが成立する。最後にうやうやしく海老天を食べ(別に海老天って味が美味しいとかではないのだけどなんだか位が高い感じがして襟を正して食べてしまう)最後のそばをたぐって終了。あー美味しかった。美味しいものを食べる喜びと、食べたいものを食べる喜びは微妙に異なっていて今回は後者だった。お腹の空き具合にぴったりのものが収まった快感。ありがたいなぁと思いつつ暑い夜を帰った。

某日

Kindleで新書を4冊購入。安かった『春あかね高校定時制夜間部』を読む。夜間部に通う一癖も二癖もあるキャラクターがギャグの中に見せる己の芯、そしてそれが決して人に伝わっていないところも含めていい漫画。

ままならない人たちの高校生活だって時には何よりも輝く—heisoku『春あかね高校定時制夜間部』 | マンバ通信 - マンバ

 

行方不明展/鑑賞のモチベーション

『行方不明展』を見に行った。時間指定のチケットだったのだけど、日本橋のギャラリーの前には待機列が形成されていて、見たところ若い世代が多いように感じた。開場時間になるとワッと列が動き、開場の各所に展示されたオブジェクトにはおおむね並ぶ必要がある、そういった活況のある展覧会だった。

展示にはざっくり四つの区分があり、その中での鑑賞の順番はあまりなさそうだったのでこれから行く人は地下から見ていった方がいいのかもしれない。あと映像・音声作品は全部の尺を見切るのは時間指定チケットだと至難の業なのである程度諦めをつけて進んでいく方がいいと思う。こういった事務的な(事務とは?)話を書きたいわけじゃないので面白かったところを書いていこうと思う。

・「行方不明」の定義

展覧会の最初にはっきり書かれているが、展覧会で扱うオブジェクトは行方不明そのものではなく行方不明の周縁で起こる何かを集めたものだ。特に地下の展示においてはそれが顕著に感じられた。だから間口が広く様々な角度の行方不明が見られたというところが良かった。最初の「人の行方不明」の部分が大きくフィーチャーされていたように感じていたので他の部分もかなり満足度が高い。

・設定の良さ

この展示はフィクションなので設定と断じるけど、設定がいいものが多い。「壁に向けられた望遠鏡」や「盗撮の映像で作られたカラオケのMAD動画」などは単発でもかなりいい設定だ。「行方不明のやり方を教えるVHS」もおいしいしなんか内容がきちっとしてるのもGOOD

という良さをわかった上で、展示の後友人らと飲みながら話していたのは行方不明展を楽しむモチベーションだった(というより俺が一方的に話を振ったのだが)。

俺はホラーがぼちぼち好きだが、ホラーの展覧会というものに始めて行ったので正直最初の列でかなり面食らっていたというか、その列に満ちる何らかの期待感は何を期待してのものなのか、期待感の振り下ろし先をわからずにいた。良いところに書いたようなものを良いとするとこの展示はひたすらに行方不明という現象の切り口を見せつけるものであり「あぁ!」とか「なるほど!」とかいう思考の終点を示すものではなく、むしろ出発点を多く示してこちらにその先を委ねてきている。その委ねられたものをどうやって飲み込むかという意味でこの『行方不明展』は現代美術の展覧会に近いバイブスがあった。しかしそういうバイブスを展示に感じながら会場を回るにはあまりにも人が多く、内面と外面のテンションが釣り合わないなと正直思っていた。まぁそういう、フィクションのビデオを押し合いへし合いして見るシュールさは嫌いじゃないのだけど。

さらにモチベーションの話で言うと、ホラーはわからなさを売りにしておりかつこっちが作品に歩み寄る必要があるので、結構鑑賞者の負担が大きいジャンルである(そこのギャップを怖さという根源的な感情でショートカットできるのが強みでもあるのだけど)。そしてその負担の大きさは、ジャンルに慣れていくことが鑑賞体験に与えてしまう影響の大きさと表裏一体だ。つまり、慣れれば怖くない。そこでこの展示に来る人は多分慣れている人が多くて、ホラーオブジェクトを斜に構えてみてしまう癖がある。そういう癖が映画や小説などで発揮されるのはいいんだけど人がいっぱいいるところで発揮されると他人の鑑賞体験を損なう危険性があるというのもちょっと見ていて思ったことだ。

結果、ホラーオブジェクトの展覧会はかなり難しいバランスで成り立っているのだと言える。そもそもホラーを大勢で感じると言うことは難しいだろうし。その最適解が今回示されていたかはわからない。ただ、しっかりと開かれた態度で見に行けばかなり得られるものがある展覧会ではある。そういう心構えがきちっとできる人にはお勧めです。ただ人と見に行ってここがずれていると、ちょっと、いや、かなり鑑賞の後「うーん」みたいになることが、あるぜ!まぁ万事がそうと言われるとなんともなんですが。

 

日記(一日いられるじゃん・現実の厚み)

某日

鬱々としている。なーんか気が乗らないみたいな気持ち。

某日

友人から勧められた漫画が面白くてハッピー。別口で友人に漫画を勧めたら読んでくれてハッピー。こういうシンプルな良さを大事にしていきたい。

某日

遠出。いやに暑くて普段行かないところなので待ち合わせを間違えたり出だしからうまくいかず。用事のあと巨大なスーパー銭湯へ。友人とたらたらする。駅からシャトルバスが出ていて、乗り込むと前の人の風呂の香りが車内に漂っていた。肝心の風呂も良くて、風呂がいくつもあり、電気風呂が異様に強かった。ヒーとなった後に若者が続けて入り若者らしく叫んでいてうるさかった。施設の上階には岩盤浴があり、そこには漫画スペースもあるらしい。そんなん、丸一日いられるじゃん。先に湯を上がったのでロビーの休憩所みたいなところで休む。スーパー銭湯の休憩所ってみんな家のようなくつろぎ方をしていてちょっとどきどきするのは自分だけだろうか。公と私の境目が曖昧になっているというか、生活の中で現れるゆるみみたいなのが引き出されている気がする。実はみんなそう思っていて、でも抗えずにゆるんでいるのかもしれない。という意識で友人ととりとめもない話をしているともう一人の友人が帰ってこない。しびれを切らして風呂に戻ると浴槽に設置された鉄腕ダッシュを見ていた。確かにスーパー銭湯で見る鉄腕ダッシュ、かなり温度感があっていていいかもしれない。夜ご飯もそのまま館内で食べる。甘い味付けの太麺焼きそばにビールもつけちゃう。ここ最近で一番美味しかったかもしれない。ジェラートまで食べてお腹いっぱいで帰る。結果的にかなり夏らしい日だった。

某日

会社のおじさんが、休みの日大学で授業を受けていると話をしていた。社会人講座みたいな奴を何ヶ月か聴講するらしい。なんか、そんな選択肢って目の前でいくつか見たことはあれど実際にやったことがなくて、素直に感心してしまった。俺はそのおじさんをそういうことをする人だと思っていなくて、他人はやっぱり想像を超えてくるので面白いと思った。ただこういうことを会う人全員に感じているとウワーッとなってしまうのも事実で例えば職場の人が家庭を持っていると知って、子供もいて、その子供が家の壁に落書きをしていたりそれを休みの日にこの人は消してそのための道具をドラッグストアで買ったりしている……と考えると現実の厚みに圧倒されてしまう。だから努めて物事を薄目で見ている節があるけど、この話を聞いてそれはそれでよくないと自省してしまった。

帰りにコンビニで惣菜を3品買ったら会計が千円超えてて戦いた。でもそれも美味しくて特に300円くらいのスープが良かった。夏場は塩分を摂るために味噌汁がいいらしいが、自分はコンビニ弁当に味噌汁をつけたりするしカップ自販機には味噌汁がほしい人なのでかなり味噌汁が好きなのかもしれない。おもむろに肩を回したりして寝る。

 

理解はできるけどそれだけだな

「ピザ屋の匂いって、全部他人が注文したものから香る匂いだと思うと、悔しいよな」と友人に言ったら「理解はできるけどそれだけだな」と言われた。全く持ってその通りだ。この言葉を発する時、自分は日本語のテクニックだけで言葉を作っていて、伝えたい想いとかそういうものがなかった。早いが話コミュニケーションとしてではなくポストとして言葉を投げていた。そういう言葉は誰からも受け止められずポトリと地面に落ちるだけだ。言葉はツールであり、そういったツールが適切に使われる様をコミュニケーションと人は言う。でもなんでコミュニケーション以下の言葉を吐いてしまったかというとやはり一人で喋っているからであって人と話さないといけないなと思わされる。一人で喋っていると言葉の組み立てのテクニックだけが磨かれて中身が空洞になっていく。SNSで飛び交うインプレッションを稼ぐ言葉のほとんどはテクニックであり、そこに内情は伴っていない。そういうテクニックだけで『若者の語彙力は少ない』みたいな事を言っているのは同じ穴のムジナで、語彙力だけあっても中身が空っぽな言葉はいくらでも作れるのだ。例として適切かはわからないが『保育園落ちた日本死ね』という言葉は昨今のテクニックだけ違った罵詈雑言風のあれそれに比べて圧倒的に力がある。内情が籠もった言葉だと自分は思う。

とにかく友達と話している時にこういった言葉を吐くのはやめようと誓ったのだった。この次発したのは『あの部屋の灯り、青すぎね?』だった。全然誓えてない。