某日
表面的な行為だけ止めても問題は解決しないが、その根本にある問題が「もやもや」とかで済まされちゃうと『謎の基準でハラスメントとか言われるし』と思われちゃって、言われた側は何をすればいいのかわからず、生きづらくなる(もやもやで済ませられる当事者性にあぐらをかいてるとも言う)
— コジエズ (@First_kzez) 2024年3月10日
こういうツイートをした。ちょっとこの時酔っていたので連投ツイートをしてしまいそれが気持ちよくてよくなかったなと反省。まぁこのときの発言が正しいかどうかは置いておいて、この気持ちをぶったたかれたのが『まとまらない言葉を生きる』を読んでいるときだった。主に障害がある人が自身らの扱いなどに反抗し配慮をもぎ取っていった過程で生まれた鮮烈な言葉がいくつも載っている。これには「当事者性にあぐらをかいている」なんて言わせない迫力と魂があり、言葉は軽々に使うものではないなと思った。
某日
「生の映画を見ているようなもんだよ」というこづかい万歳の名台詞があるがこれを何にでも応用するのは危険だなと感じた。最近海岸に行ったとき、海岸で女子高生が何やら記念撮影をしていたのだが海辺に制服姿の女子がいるときの映画っぽさといったら無かった。ただその光景を映画だなぁと思ったときに、その光景を構成する要素はすべてスクリーンに映されたまがい物になってしまい、なんというか自分がそれに現実で立ち会っているという感覚が薄れてしまうのだ。こういうことってコンテンツに対して「壁になりたい」というオタクあるあるだと思うのだけど過度に自分を傍観者のように、光景を主体的に考えることはあまりいい結果をもたらさない気がする。多分これは一般化の傍系でそんなことをしているからなんにもきこえないし見えないのかもしれない。書いていて、友達の話をすぐ一般化してネットの話にすり替えてしまう自分をかなり恥ずかしく感じてきた。あーあ。
某日
コンビニでデリーのカレーを食べた。えらい辛かったしまたデリーに行きたくなった。金曜日は帰りがけに会社の付近を歩くようにしている。これは会社付近のマップをトロコンするため。今週は面白い酒屋というトロフィーを見つけたので満足した。