続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

だらしなさをどう捉えればいいのか

◯人の特性をすぐ病気で読み解いてしまう

具体名を出すなら令和ロマンのくるまがADHDに似た特性を持っているように見える、というツイートが1月ごろに散見された。これは有名人だから、ということもあるだろうが、近年よく見るだらしなさをネタにしたツイートなどにも「それってなんとかの典型的な症状だよ」という指摘がなされているのをよく見かける。この指摘は素人判断が多いので必ずしもそうだとは言えないと思うが、こういった流れはどうなんだろうな~と思わなくもない。境界知能然りHSP然り(見齧った言葉なので用法が正しくないかもしれない)最近見つかった疾患は、それによるラベリングが多くに適用される点で有用でもあり危なっかしいとも言えると思う。ものすごく変な言い方をすれば冒頭のくるまの例でおれはがっかりした面がある。彼(ら)の素晴らしい漫才にそういう指摘が影を落としてしまう瞬間がある。これはちょっとまだ説明できないのだけど。

話は戻って、こういうだらしなさに代表されるはみだしはかつてなんかなぁなぁで済まされていた面があったが、そういった普通からのはみだしが、最近疾患と結びつくことでよりそのはみだしっぷりを際立たせてしまい、世間との距離を離してしまっているんじゃないか?と思っている。たとえば飛行機の時間を間違えた人に対して「こういう人は飛行機に乗るべきじゃない」なんてことを言う人がいるのだ。いや、これは単に人の心がないだけか…。でもこういった内容に近しいことをライフハックと抜かすアカウントもあるのだ。これは本当。かつ、ラベリングがその本人のアイデンティティと結びついてしまい治るものも治らなくなることもあるだろう。うーん。書いていてなんだがややこしい。

 

◯だらしなさに厳しくなる

それはそうとだらしなさはインターネットの古くからの王道のネタであり、ひとがやらないことをやってしまうことはオモシロとされていた。だが俺はもうインターネットのだらしなさを楽しめなくなってきている。飛行機の時間をめっちゃ間違えるとか、面白いより心配が勝つし、バイトの上司ウザイからバックレたとかも雇用先の他の社員の心配をしてしまう。こうして内面に社会の規範が入り込んできている感覚がある。これは残念なことなのかどうかもわからない。ただ昔から変化した点だとは感じる。こういう事をいうと『それは社会人のポジショントークだろ』と言われるかもしれないがポジション以外からトークできる人がいるのかは疑わしい。でもそうかも。俺は社会に生かされていて社会の中にいることで利益を得ているので、逆に社会を乱す人に厳しい。これは言い逃れができない。

 

◯だらしなさをどう許容するか

まぁ、昔と今とではだらしなさの影響力は変わらずともその受け入れ方はだいぶ変化している。自己責任、成果主義…。だらしなさは駆逐されている。でも俺が一貫してだらしなさとそれを呼ぶのは一種の愛着からだ。自分だってだらしないわけで、相互だらしな主義である必要がある。ただ、社会でだらしなさをそのまま表現するのは難しい。自分を褒めようという錦の御旗がないと自分を甘やかすこともできないのではだらしなくなんてできるわけがない。

 

ということを最近考えていてこれらは全部同じ根っこがある問題だと思う。わからないけど。なんか哲学とか、これ知りたい!ってトピックがないととりあえず文を断片的に取得して話題にリーチする主題を探すとこから始まる節がある。そういうの嫌いじゃないけど。

 

※追記

メンヘラという言葉にも上記に近い違和感がある。しかしメンヘラは具体的な欠点ではなくどちらかと言うとコミュニケーションの問題な気がする…。でも何でもかんでもそれメンヘラだよってサラッと言う人はちょっと、かなり、うーんな気持ち。