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インポッシブル・アーキテクチャ展に行った

建築に疎い人生を送ってきたが、急に自分の中で建築がアツい。なぜかと言うと散髪中にBRUTUSの「ル・コルビジェ特集」を読んだからだ。

その特集を見るまで、何故国立西洋美術館世界遺産になったのかすっかり分からなかった(今でも理解はしていない)がその建築史における特異性だとかピロティ(これを読むまでお祭りで売っている息を吹き込むと音と共に伸びるオモチャみたいな音だなと思っていた)の意味なんてものがうっすら見えてきた。

思えば建築を考えてみたことは無かった気がする。月並みにトマソンだとか、中銀タワーだとかガウディの貝殻が埋め込まれたマンションだとかは知っていたがそれが人間の生活の寄る辺である以上のことを見ていなかった。

 

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そんな反省もありながら向かったのが「インポッシブル・アーキテクチャ展」だった。

朝というよりは昼の時間に起き、のそのそと出支度をして駅に向かう。

夜中までクトゥルフTRPGをやっていたこともあり眠かったけれども、最寄り駅でスパイシたっぷりのラムカレーを食べチャイを飲み終わった頃にはすっかり脳は起きていた。大体カレーを食べておけば自分の機嫌が取れるのだ。甘いチャイを腹に収めたまま書店でケン・リュウ『神の動物園』を買って行きすがらに読む。読み耽る。さすが現代最高峰のSF作家というか実に良かった。

埼玉県立近代美術館北浦和駅からほど近い公園の中に建っている。展覧会は外から見てもわかるほどの人の密度であり、年代も様々だった。

 

結果から言うととても良い展示で、久々に脳の違うところがこじ開けられる感覚を味わえた。建築は建築者と使用者がいて成り立つものだけども、その使用者がいないアンビルドな建築がここまで表現になっているのかという衝撃が凄い。一見意味不明な建築が解説による補助線で朧気ながらも意味を持ち始める瞬間、その(物理的に)どデカイ

意味の前にたじろいでしまうのだ。

・ダニエル・リベスキント『マイクロメガス』

解説いわく、「設計図という3次元を前提とした2次元を意味から脱却させたドローイング」らしい。どーいうこっちゃと思いつつ作品を見ると3次元的を超えた立体感のある線の集合に圧倒される。昔、ジャクソン・ポロックのアクションペインティング作品を見たときのような、脳に許容を超えた意味とかが流れ込んでくるような感覚だった。こんな尖った思想の人物が建築できたのかと思ったらちゃんと仕事しててよかったね、となった。

ヤコブ・チェルニホフのドローイング

ネットを探したら情報が全然ない。絶対にグラフィック畑の人が好きだろと思った色彩と迷いのないドローイング。もはや建築というよりドローイング作品だ。というかさっきからロシア周辺国の話が多い・国威掲揚でバカでかいモニュメントいっぱいあるしな北の方…。

メタボリズム1960

菊竹清訓の「海上都市」黒川紀章の「ヘリックスシティ」「農村都市計画」など魅力的なアイデアが盛りだくさんだ。「農村都市計画」の都市をあるフレームで実現し組み替えられるようにする考えは世界中で行われているようで、「パレスシティ」などの例もあったがやはりわくわくしてしまう。そしてこれらは会場を出たあとの「見えない都市」という映像作品で実際に都内に出現するのだ。CG加工とはいえ家々の隙間から覗くメガアーキテクチャはたまらない。

ザハ・ハディド「国立新競技場」

ここが今回の白眉である。視聴者からすれば「なんかいろいろあって変わったやつ」というくらいの認識を膨大な資料、設計図、証明書で殴ってくる。子供の背丈ほどに分厚い説明書と認可の書類の束はこの労力が灰燼に帰したことを示しているし、それがポッシブルだったという事実を突きつけてくる。これまでの展示であったアンビルド建築とこの建築の差はなんなのか。壁に掲げられた設計事務所のコメントから伺える静かな怒りから目をそらせない。

会田誠 山口晃日本橋案」

現代日本の芸術のトップランナーの二人の案は荒唐無稽なあんだけれどもそれがインポッシブルである意味を考えさせるものだった。仲いいなお前ら。

 

…とまぁ実に示唆的なと言うか、しばらくは作家の名前でググりつつ好奇心を満たせそうないい展覧会だった。問題は明日までということだけども、巡回をまとう。

 

そしてその後は北浦和をマフィンとコーヒーを飲みながらフラフラして帰った。

美術館浴が高まったのでコルビュジエ展も行こうかな…。