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利他学会議vol.3「自然とアナキズム」を聴講する

東工大の未来の人類研究センターが行っている利他学会議を聴講した。

www.titech.ac.jp

そもそもなぜ聴講したのかというと、利他という言葉は最近にわかに目にするようになっていて個人的にも気になるワードだった。そこにSNSでたまたま利他学会議の話を目にしたので申し込んだという次第だ(伊藤亜紗氏のツイートだった気がする)。私が聴いたのは3回目のセッションである「自然×アナキズム」だった。

結論から言うと面白いセッションで、私は楽しめたしゲストスピーカーとして参加されていた皆さんの著作を追ってみたくなった。内容をかいつまむと利他という言葉について、自然という「人間が介入しない/スケールを超えた視点であるもの」とアナキズムという「近代個人主義に対立する考え」2つの側面から迫っていこうというセッションだったと思う。ちなみにセッション後の井戸端会議みたいなざっくばらんな話の方は聞けなかったのだけどそちらも面白そうだった。なにより子供がないている声がバックに入っているのが良かった。学術的な場に子供がいるのはいいことなので。

おそらく内容は以降何処かで公開される(以前の利他学会議のセッションアーカイブYou Tubeに上がっているようだ)と思うけれどひとまず自分がセッション中に取ったメモ書きを以下に貼っておく。

 

自然とアナキズム
→自然体系で行われる歯車のように噛み合ったシステムとしての相互扶助とか

自然とは?
・2種類ある(非生命の自然/生命の自然)
・非生命の自然とは
生命が存在する前の惑星の状態としての自然(スノーボールアースとか)
・生命とは?
エネルギーを取り込み、代謝や複製に伴った自己増殖を行い排泄する、外界と膜で区切られたもの
原初の生命は地球の活動によって作られた水素が餌だった
生命は代謝により、新しい分子を作り出す(牛のゲップとか)
・生命の自然とは
生命の活動が惑星に影響を与える
Ex光合成のし過ぎで…大気の組成が変わる/海中から酸化鉄が出来る/メタンが酸化される
→しかしこの光合成のし過ぎ(自発性の暴走)で人間とかが酸素を利用できる
このミクロなものが「人による人のための自然(人類の活動は惑星に影響を与える)」
・人類は外部要因を利用して環境に適応することができる(服・火)
→人間は思考ができる。→人間のやり過ぎは「光合成のし過ぎ」と一緒か?

アナキズム
→無支配主義(権力からの脱却)
アナキズムの自然感
自然は「おのずからしかり」→見返りを求めない仁である
・相互扶助は交換ではなく無償の行い(ギヴ&ギヴ)である
・生の拡充(=生命は変化しながら広がっていくものである)
近代的自然感=人間と自然、自分と他人、主体と客体=近代の個人/法秩序感
自然を人間は所有していいんだ、という考え
→これらの二項対立を橋渡しする「生」は変化であり流れ→「おのずからしかり」
個はおのずからしかりの変化の器にすぎない

ストライキは自分の中に他者が現れて乗っ取られることで生まれる
Ex.他人の苦労を内面化してそのために怒る
→労働運動には自他を区別しない相互扶助の考えが存在する
アナキズムの反対は近代的個人感→統治の過剰に傾倒していく?
個人でないものを「エイリアン」として排除してしまう

共助と自助
どちらが先立つのか?
他者が自分の中にいることとそれをコントロールすること

・受け取らない自由
交換が行えない行為が存在する→利他を交換を求めて行うとキツくなっていく
『ぼけと利他』
一体化が行えない場合(テンションが低い)の相互扶助
自分でも他人でもない状態→友達とおしゃべりをしているときの認識
→おしゃべりの中で起きる認識?感覚?のズレを良く誤認する
ギヴ&ギヴ&ギヴ&…の連鎖で、直接だとダメなものが良くなる
→生物の中の環世界的相互扶助(人間が酸素を取り込んで腸内で嫌気性菌を育てる)

・~しちゃう問題(意図せずやってしまう)『思いがけず利他』
意図と身体が反する状態が存在する(仕事行きたくない…)
自分が思っていることかのように他人のことを言っちゃう(受け売り)
→当たり前の考えから脱却するアナキズム的状況
器を維持することが生命の本質→自分のエントロピーを下げる行為
→周囲のエントロピーを上げる行為→部屋が汚くても仕方ないよね!?

・対象者のことを考えてもわからない、けど「突き動かされてしまう」状態
Q.他者への影響を考えず「支配から自由になる」を優先した延長線上には、アナキズムもあるし、新自由主義もあるのでは?なぜこの2つは逆位置なのか
アナキズムは仁を重視する。新自由主義は得をする方を選び続ける考え。これは反対にある。また、得をしない方を引いても自己責任で引き受けることが必要。責任を自分に返すことは近代的な個人感の代表的なもの(個人は個人をコントロールできるという考え)

Q.宇宙を見ること(ロングスケールで考えること)で死生観に変化はあるか?
人は知性を持つことで死を重く捉えることになっている→死なせたくない
原初、生命は代謝するものなので、死は生の一部であるといえる
SDGs的なものは「人間のための」環境を持続させることなんじゃ?
Ex.プラスチックは二酸化炭素を固定化できる性質を持つ/放射能によって生きる微生物もいる

アナキズムと人の死
生は有限だから有益にならないとならない→道具的な生になってしまう
大義のためには死ねるけど、自己保存的に生きたくもなる
→ロングスケールを見ることで自分の中に矛盾が生じる→そのことが自分の変化のきっかけにもなる

近代は人間中心主義
人間以外もアクターとして捉える人文学が最近盛り上がってる
理系は人間以外の視点で考えることが割と普通にある
人間は善悪で考えてしまう→善悪以外の他の生物の価値観/答えを持つのは難しい

共生主義は全体主義
→味方だけを見ているのでは?外部者もエイリアンも当然存在する
→手を取り合わない、適度にどうでもいい距離を保つ

近代は二項対立
二項対立には絶対外部が存在する→今であれば暴力や乱雑さ
→これらを環世界にどう取り込んでいくか

人のためにすること。育児は母に課せられている
→国家が自発的なもの(育児とか)を義務にしていっている
→愛がやってきている
介護という営みの中で家族が家族から外れていく(認知症とか)
外れていくという進化をきちんと受け止める