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『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』を読む

『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』を読んだ。

行為が問題になる時その論点は行った当人の「意思」に置かれることが多い。そして論自体の結果は「責任」という形で現れる。

この「行為」「意思」「責任」という3つのトピックスを、この本は図をふんだんに使いながら解体しつなぎ合わせていく(どうじにそれらは必ずしもつながるものではないということも示される)。本の冒頭で示される『トラックの運転手がやむを得ない事情で一瞬目をそらした瞬間に飛び出してきた子供を轢いてしまう』(終盤で悲劇とあらわされる)例はウッとなる例だし、文中にはこのような実感ができる例示がたくさん出てくる。行為と意思は我々の生活そのものだからこそ多くの例示には実感がある。

そういう日常の実感から哲学的、倫理的問題へアクセスする流れをこの本は取っており、図の多さと並んで内容がわかりやすい理由の一つとなっている。

特に面白いと思ったのは前半で言及される「意思」の正体についてだ。心身二元論から現代の脳科学までの系譜と、その過程で生まれた様々な言説はある種、文化や経済の潮流とも一致する部分が見られる(『「意思」なんて脳で生み出された電気信号の集積にすぎねぇぜ』というのは『近代的な』人間中心主義的な考えだ)。その中で著者が出す『「意思」は回顧的に語られるものだ』という結論は即物的でもなく神的でもなく人間自身の行いが「意思」であるというステキで粘り強い結論だと感じられた。また最終盤では「運」という言葉も取り上げられる。

著者によれば行為のすべてを行為者はコントロールできず、そこには必ずままならないものとして「運」が絡んでくるという。これは実感としても頷けるが、反して最近取り上げられる『自己責任論』とか『メリトクラシー(親ガチャ的な)』という言葉はこれを否定し行為を100%責任に帰着させる。でもまぁ、正直それって実感として結構キツい。著者はそういう自己責任論が想定する存在をデカルトの言葉をひいて「完全な道徳的行為者」と呼び、それは実質とはかけ離れていると糾弾する。我々は自分の行為をすべてコントロールし完遂し続け、それらは道徳的見地から完全に正しい行為である、なんてことはない。行為をやろうとしても電話に邪魔されたりやる気が出なかったりやっても最後までできずに放り投げたりできた風だけを装ったりする。さらにやったとしても人は人知を尽くしても天命を待ってしまう生き物で結局運は良くも悪くも行為に密接にかかわっている。そういうままならない世界で我々は生きている。それを著者はアメリカの哲学者ウィリアムズの言葉をひきながらこう語る。

"我々の個々の人生の実質は、「意志の産物とそうでないものとの網の目」という形で形成される行為者としての履歴に、多くを負っている。そしてその履歴は、この私がいま・ここから眺める、文字通り偏った視点からの内容が普段に織り込まれたものである。もっとも我々の多くは(中略)偏りのない公平な視点を尊重し(中略)努力もする。(中略)そうした、偏った視点と公平な視点との葛藤の間に(中略)行為者としての人間の真の姿があるのである。"

※そう思うと今の自己責任論が「自己責任だから道徳的に生きよう」ではなく「自己責任だからちょっとずるして楽しよう」という提唱をしているのはそれこそ不道徳ではある。

 

この本のトピックではないが、著者は続く著作で言葉というトピックに切り込んでいるらしい。そう思うと『「意思」の媒介に「言葉」がある』という本著のトピックはさらに深化しているようで、続く本も読んでみたい。