『思いがけず利他』を読んだ。
利他とはなにか、作者はまず「合理的利他主義」というものを提示する。これは利他的な行動が功利的性質を持ち、結果的に利己的な最適解になっていくという意見でありこれは最終章で否定されることとなる。ともかくこの否定には様々な考えが必要となり、第1章は落語から話が始まり、そこから以降本を貫く考え方は親鸞になり…という始まりには少し面食らった。が読むにつれそれらの関連性が具体的な世の中の出来事や私的な思い出と結びついていく。「与格の構造」は(引用もされてるし)國分の中動態の話とも似ているけど、個人的には3章に驚いた。
そこでは利他と利己の差が受け取り手に委ねられる。行為の主体を中心に話をしてしまうと利他は利己になり、終いには支配へと性質を変えてしまう。
私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる
この言葉はとても問題意識について開かれていて、利他は行為側にも受け取り側にも起動できるものだというのは明るい指摘だと感じた。この話は「利他的な行動が利己的ともされるのは何故か?」に対する「行動が利他的であることは、行動の瞬間には分からない。それは受け取り方により決定され、更にその受け取りははるか未来になり得る。利他は行為者にすれば未来から、受け取り手にすれば過去から常にやって来る」というところにも繋がっていく。確かに!そこから弔いの利他性に繋がるのも驚きがある。
また親鸞も言う「利他とは考えてできるものではなく自らが感情の器になった時引き起こされるものだ」というのは頷けて、それに続く九鬼周造の引用もとてもいい。
私を生きることは、私という偶然的な非贈与性を受け入れ運命を能動化する作業です。
だから今の私達は偶然性を必然性にするために行為して、未来に起動する利他を信じていくのだ。
ちょっと話はズレるかもだけど俺はこの本を読んでスパチャのことを考えていた。スパチャは一見利他的な行動だが、スパチャの結果は即現れる。それはコメントを読んでもらったり呼びかけに応じてもらうという形で。そう思うとそれは行為を期待した利己的な行為であり、しかしそれは金額という画一的な価値の高さと対価の少なさ(ウン千円払って一言声をかけてもらうって変な話だ)が相まってハナから釣り合わない行為だとみなされ、その釣り合わなさを隠蔽するためにあたかも自発的な投げ銭という利他的な行為にさせられている、ように見える。さらに言えばこれは推しビジネス全般に言えることで反応のインタラクティブ性と釣り合わなさを利他的な覆いで隠しそれをファンに強制させる歪な構造がそこにある、ように見える(頂き女子という言葉の十重二十重に覆われた構造!)。
本当は好きなものに利他的になっていきたい。利他だけで腹は膨れないけども。ならせめて周囲にだけでも、自分にだけでも。利他というワードは自己決定論とか新自由主義へのアンチテーゼとして近年盛り上がっているのかもと思っているけど、たしかにそういう風潮に別の角度から補助線を引いてくれるいい本でした。読みやすいしおすすめです。