C100に出るあとがき合同本に寄稿した。
ご無沙汰してます、薄荷です。唐突ですが夏コミ参加します!今回は「後書きonly合同誌」で殴り込み!15人の作者が後書き“のみ”を書いた合同誌、皆様どんなものか少し気になりませんか?
— 薄荷 (@mint_timer) 2022年8月5日
タイトル:後の祭り
サイズ:B6 50ページ
価格:500円
頒布スペース:C100 2日目(8/14)西2ホール け-32b「螢光燈」 pic.twitter.com/z7zMwyzLTv
この本に私はあとがきを書いたので、そのあとがき…いや、「端書き」を書こうと思う。それは宣伝のためであり、もう一つはこの本が私にとって「語りたくなる本だった」からだ。
あとがきとはなんだろうか?あとがきは物語ではない。物語はその前のページで終わっているからだ。とはいえエッセイでもない。あとがきの内容の虚実について読み手は判断ができないからだ。本編の終わりのあとのコンテンツと思うと、他媒体で言えばカーテンコールというものもあるが、劇の最後に再度幕が開き出演者全員が肩を並べて観客にお辞儀をするあれは作者のメッセージではない。音楽のライブでもセットリストに組み込まれているアンコールがあるが、あれもおまけみたいなもので少し違う。
あとがきとは作者と物語と読み手の三角関係の間にある空白地帯だ。この時あとがきの大きさはヘロンの公式を利用することで、
あとがきの面積={(作者と物語の距離)+(読み手と物語の距離)+(作者と読み手の距離)}÷2
で求められる。
各要素の距離が遠ければより肥沃なあとがきが得られる、というのは直感に反しているように見受けられるがそれはあとがきをコミュニケーションと捉えているからだ。あとがきは独立した主体として存在する。
物語と読み手の距離が遠い場合を考える。読み手は遠い物語に食らいつき読了しその遠さに胸を踊らせる。そして最後あとがきでその遠い物語の端緒が作者本人によって明かされる時、そのあとがきは読み手にとって今後物語を思い出す際のキーとなり、豊かに感じられるだろう。
物語と読み手の距離が近い場合、あとがきの内容は既知のものが多くなりふーんくらいの理解にとどまってしまうかもしれない。
そう考えると寄稿した私はこの本に集められたあとがきを十全に楽しめたとは言い難い。なぜなら私は主催者側であり参加者との距離が近いからだ。もちろんそれでも参加者のあとがきは個性的な三角形を各々作り出し、原稿が出揃った編集作業では「容疑者Xの献身」よろしく天井に様々な三角形が見えるほどだったという(本当の主催さんその節はお疲れ様でした)。
しかしこの本を会場で手に取る皆さんは違う。あなたと参加者の距離は限りなく遠い。その時この本は真価を発揮するのだ。ぜひページを捲ってあとがき自体の面白さ、そして語られぬ物語の遠さを感じてほしい。
願わくばあなたと作者と物語の作り出す三角形がチグリス・ユーフラテスに広がる肥沃な三角形をも超えて、豊かになることを期待する。