続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

地球外少年少女を見る&磯光雄監督トークショーも見た

監督いわく、「この作品は子供にこそ見てほしい」ということだ。確かにこの作品には子供がワクワクするようなギミックと画面が詰まっている。ベタであるが陳腐でない瑞々しい冒険譚になっている。

作品の細かいあらすじなどは置いておいて好きなところを箇条書き。もちろんネタバレを含みます。

 

・SF設定の詰め込みようとその楽しさ

本作の舞台は民間人が宇宙ステーションに来られるくらいの技術レベルの未来。宇宙で産まれ生き残った二人の少年少女と宇宙ステーションに来た民間人の少年少女が出会うところから話が始まる…そしてこの魅力的な始まりと並行し、ピアコム、スマート、セブンポエム…といった作中設定がバンバン出てくる。この設定の濃さは設定が美味しく感じるオタクはもとより、アニメの強みを活かした「設定を視覚的にわかりやすく見せる」技術が冴え渡っており子供もワクワクできるポイントだ。ムーン・チャイルドである登矢がドローンを知能ハックする描写なんて『都会のトムアンドソーヤ』みたいで素敵だ。

話のもととなる彗星の直撃も、セブンツーの浸食も一切説明はないが、リアクションと絵力でとにかく話を引っ張っている。サイコー

 

・アニメーションの気持ちよさ

このアニメ、全編に渡ってアニメーションが心地よい。いやまぁ天才と言われる磯光雄と売れっ子吉田健一を擁せばそれはそう…と言う話なのだが。意外とシーンごとに見ると描線が明らかに異なるのに、違和感を感じさせない構成だったり、独特のフォルムの宇宙服をしっかり描いてたり、2話で登矢と大洋が宇宙ステーション内を落ちる(これは円環状の宇宙ステーションにおいて、中心から円周方向に延びるシャフト内では外側ほど遠心力が強いから…だと思うのだけどそんなことは一切説明しないシーンにもなっている。なのに「なんかやべー!」と手に汗握らせるのがアニメーションパワー。ちなみに5話でもこの構造による床の傾斜が描写される)所がかのカリ城の大ジャンプを彷彿とさせたり…あげていけばキリがない。無重力なんてめんどくさそうな舞台をよく描いたなーとなる。

 

・テーマ性

最終的に話は平行世界に繋がっていき(6話のここのシーン、センス・オブ・ワンダーを絵で見せる覚悟を感じるのでオススメ)、『未来からは逃げられない』という惹句に帰結する。知能リミッターという特異な設定を踏み台に人間の可能性を謳うというのはとてもきれいなオチだし、ジュブナイルとしては満点だと思う。

人間の可能性は作中で死にそうになる女性二人、心葉と那沙を通しても語られる。二人は今際の際に同じようなことを言う。これはもう『決まったことなのだ』と。那沙にしてみれば自身の生死はセブンポエムに記されており、心葉にすればルナティック後の11次元思考により自身が死ぬことは決まっている。だからこそ二人は覚悟が決まったようなことを口走るのだけど、その後心葉は泣きながら「死ぬのが怖い」と漏らす。それと登矢が心葉の手を掴むことはもちろんつながっていて、最後の最後に残る人間の意志が人を人たらしめるということなのだと思う(対比させればセブンポエムという一種のカルトはそれすらも飛び越える力があるということなのだけど)。AIと人の関わりは作中でも丹念に描写されるが、ここは本当にいいシーンだ。

 

ここまではひたすら感想だったが、後編を見た際のトークショーの話もしなくちゃならない。

トークショーのことを知ったのはたまたまで、近場の劇場で上映会を探してたらトークショーがあるという話だったので勇んで参戦をした。


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久々に来た映画館で鑑賞を終えるとプロデューサーと監督が壇上に上がり、「今日はみなさんのルナティックした頭に更に私が話したい、尺の都合で作中に入らなかった設定を詰め込んでいきます。覚悟はいいですか?」と述べる。そしてその後は本当に作中に一ミリも出てこない裏設定をノンストップで語る、文字通りトークショーだった。

トーク内ではここに書けない話もあるのだけど、本当に色々な設定がこの作品には盛り込まれており(現代から作中時系列までの技術年表も存在するらしい。見たすぎる)、『作者の人そんなとこまで考えてないと思うよ』なんて言っている場合ではなかった。

唯一ネタ的に笑ったのはドローンの知能指数について。登矢はドローンの知能リミッターをハックしているが、ハックの度にドローンの知能指数が画面上に表示される。その単位は「FC」だがこれは「ファミコン」単位だそうだ。最終的に〜ペタFCまでドローンは進化するが…。

 

とかく、SF的目線でもアニメ的目線でも楽しめる良作なのでネトフリ入ってる人は見たほうがいいです。

明るいところで待ち合わせ

dailyportalz.jp

 

わかるな~という記事。

似たようなもので、飲み会をしていて途中でトイレ行って、帰るときに座に戻る感覚が好きだ。扉越しにわいきゃいが聞こえてくるような、安心して楽しめる空間みたいなのが好きだ。Enjoy music clubの「ナイトランデブー」にそんな歌詞があった気がする。確認したら「そんな夜」だった。

待ち合わせで思い出すのが、携帯がない時代の待ち合わせだ。ギリギリ物心がある時に携帯が普及していない世代なので、小学校の頃「三叉路で!」なんて言って問題なく集まってGCをやっていた。いまやスマホないと待ち合わせもできない。現代人はゴドーを待ってはいられない。

先日京都に行ったとき先斗町を一人で歩きながら、また友達とはしご酒がしたいなと思っていた。そんな世の中に早くなってほしいです。

 

草津温泉と四万温泉に行く

草津温泉は誰もが知っている温泉の王様である。昔サークル絡みで行ったことはあるが、自主的に行ったことはない。ならば、行くしかない。

新宿からバスで3時間ほど。山を登るに連れあたりは雪景色になっていく。そして草津温泉についた頃には普通に雪が降っていた。寒いことこの上ない。とりあえずバスターミナル三階にある図書館に向かう。『三体』の3巻をパラ読みし、湯畑に向かう。

この旅行は四日間あり、ほとんど草津の温泉に入ってアルセウスをやっているだけである。草津に関しては山程詳細な情報があるだろうから箇条書き

・泉質ピーキーすぎる

草津温泉のお湯は酸っぱい。敏感肌の人はおそらく保たないと思う。さしもに二日目から内ももがピリピリしてきたが、普段から発疹ができやすい箇所であり効いているということなのだろうか。

・熱すぎる

白旗温泉とか拷問に近いのだが、入れる人いるの?

・飯はそこそこ

そこそこです。

 

そんな感じで草津温泉でお湯に濡れていたのだけど、一日だけ別の温泉に行く機会があった。それは四万温泉である。

四万温泉にはバスと電車を乗り継いで向かう。草津温泉から草津長野原口へバス。そこから電車で中之条へ。日常のキャラクタ巡礼を済ませながら更にバスで四万温泉へ向かう。

四万温泉草津温泉の迎え湯と呼ばれているらしい。迎え湯というのは、草津温泉の泉質がエグすぎて肌が荒れてしまうのを防ぐために草津温泉の後に四万温泉に入るという湯治の作法だそうだ。へーと言いつつバスは山へ分け入っていき、川にへばりつくようにして存在する集落で止まる。そこが四万温泉だ。温泉街としては規模は小さく、三十分もあれば端から端まで見て回れる。目当てはその中でも、千と千尋のモチーフとなった建物(なんか古そうな木造造りが三段くらい重なっていると言われがち)を母屋に持つ積善館という宿だ。


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着いてみると確かに雰囲気がある建物だ。

ちょうどチェックアウトの時間で、何組かのグループが帰り際に名残惜しそうに建物を撮影していた。受付でお金を払い、元禄の湯に向かう。


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元禄の湯は撮影禁止だが看板にあるように浴室には5個の浴槽がある。設えは大正モダンというか、レトロな雰囲気がありシャワーヘッドや水飲み器にもその意匠が反映されている。泉質はさすが迎え湯というか、柔らかい。更にミニスチームサウナもあるので言うことがない。素晴らしい温泉だった。

コジエズの積善館(群馬県吾妻郡中之条町)のサ活 2022年02月07日 - サウナイキタイ https://sauna-ikitai.com/saunners/46883/posts/1874815

↑にサウナの感想は書いています。

 

宿泊するとここ以外にも色々な温泉が楽しめるらしい。そして何より宿の建物自体古くていい感じなのだが、年収が足らないのでまた来ますという結果だった。悲しいね。f:id:firstlot13:20220211104440j:image

一階部分が元禄の湯になっている。この時点でもうモダンな感じだ。

そして四万温泉の滞在は2時間ほどだったが、人里離れてぐーたらするには良さそうだった。また来てもいい。

 

そんな感じで草津温泉でした。アルセウスも進んだし温泉にたくさん入れてよかった。いつも意味わからん温泉に行って人と会わないのが常なので、草津温泉には色んな人がいて人生だった。

 

旅先でコインランドリーを回す


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旅先でコインランドリーを回すのは嫌いじゃない。4日を超える旅程だと手持ちの衣服に限界が来るのでコインランドリーを使う羽目になるのだけど、観光地で景勝地でもないコインランドリーに向かうのはなんか非日常と日常の境界を歩いているような気がする。

コインランドリーの中から見える景色は日本のどこでも日常感が溢れている。色々巡る旅行もいいけど最近のマイブームは逗留です

鳴子温泉で自炊をする

鳴子温泉に行った。鳴子温泉は温泉番付で東の横綱と呼ばれているらしい。日本人は昔は何でも番付にしていたが、最近は何でも打順にする傾向がある。ともあれ、良い温泉ということだ。なら、行くしかない。

 

東北新幹線を古川で降り、陸羽東線鳴子温泉駅に向かう。その日は大雪で、鳴子温泉駅~新庄間が不通となっていた。ギリギリだ。旅行の二日前東京は大雪となっていたがそんなものは冬歩兵にすぎない。本当の冬将軍を見せてやると言わんばかりの雪景色を2両編成の電車が走っていく。

鳴子温泉駅に着くと恐ろしい寒さだった。何より風が良くない。ともかく駅前の食堂でしょぼい天丼を食べる。駅前で食べる天丼なんてしょぼくても良いのだ。

鳴子温泉はいくつかの旅館と公衆浴場で構成されている。その中の一つが出身校の研究室が掘り当てた温泉らしいと聞いたのでとりあえずそこに向かう。古き良き温泉街を進んでいくと真っ黄色のへんてこな建物があり、それがそこだった。

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変に入り口が小さい

噂に名高い鳴子温泉だけあって湯は最高なのだが(と言いつつ温泉の成分とかはよくわからない。適温の湯をなみなみと湛えている空間を最高と称する傾向があることは留意されたい)なにぶん風が冷たすぎた。早々に今夜の宿に退避する。空いている店もまばらな温泉街のはずれに宿はある。

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写真の通り宿は自炊宿だ。宿泊棟では食事付きの宿泊ができるがこちらは自炊部である。部であれば仕方ない。留学生らしき若者に案内されて部屋に向かう。

 

自炊部の構造は特殊であり、建物の外側を廊下がぐるりと囲っている。そしてそこがキッチンも兼ねている。部屋ごとの廊下は扉とは名ばかりの板で区切られており、つまり廊下を行き来するには他人の部屋の廊下を通らないといけないわけである。

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廊下には温水管が通っておりかすかなぬくもりを与えてくれる

宿泊する部屋の隣にはおじさんが3人泊まっており、廊下には魚を入れる発泡スチロールの箱が置いてある。ここにずいぶん長居をしているようだった。

さて荷物を置くとやることはない。部屋にはテレビもなく、宿に備え付けの娯楽は何年前のものかわからない月刊マガジンだけである。となれば風呂だ。ここの宿にはなんと4つの源泉が湧いており全く違う趣向の風呂が楽しめるという。わーい。

とりあえず温泉に入りまくり、部屋に戻り温泉まんじゅうなんぞ食べながらKindleを読んでいるともう夜である。カップラーメンをすすりながら隣の部屋から聞こえるNHKラジオに耳を澄ます。関東では病原菌が猛威を奮っているそうだ。ふすまから見える外の景色は夜の暗さと雪の白さのコントラスト。部屋の石油ストーブが部屋を温めている。静寂の中なんとなしに部屋がきしむ音がする。今度は文庫本をめくる。架空の世界が展開されていく。

という感じで何もしないをしていると朝になっていた。

こんな感じで自炊宿の話は終わりである。温泉は入れてよかったね

 

 

 

開かれた内輪ネタについて

昨年末にM-1グランプリが行われた。中身は縦置き、M-1の後は毎回友人と3時間くらい配信で感想戦をする習わしとなっている。これは配信ではあるが他人に聞かれることをあまり想定せず、思うがままに真剣に喋るといいものである。これはハッキリ楽しい。大変オタク的イベントだ。

配信をした後にふと思ったが、ここまで一つの事象に言及をしていることはもはや自己表現ともとれる。お笑いファンがM-1を斬る、的な表現として成立する内容ではあったと思う。そして俺も友人も全くそう思ってはいないのだが、この習わしが楽しいのはこの開かれたことを良しとする世界で、非常にクローズドな思いで話をしているからではないかと思った。

上手く言えないが、双方向のメディアとしてインターネットが普及する中で(特にSNSがそれを加速させているが)インターネット上すべての物が自己表現である、みたいな価値観が醸成されてきたと思う。iPhoneのCMはやたらと映画を撮らせようとしてくるが、あれはiPhoneで撮った何気ないホームムービーも映画のような表現として成立しますよ、みたいなことをウリにしている例である。

そしてその全てが表現であるという前提が我々をクリエイターたらしめるみたいな好きなことして生きていく的な言説を生む。そしてその前提は表現に対する表現をも成り立たせるようになる。雅に言えば返歌とか。しかしクソリプに代表されるように表現に対する表現は芯を食わずにクソなことが近年露呈してきている。しかし自身のインターネット上での活動を表現とするならクソリプも表現なので同じバリアで守られたものとなる。よくTwitterで貼られる『あいつは言った。僕は怒った。それで終わり』というパーマンの一節である(キテレツだった気もする)。

かつ表現はそこへの芯を食ったリプライを期待するものとしても位置づけられる。すべてのクリエイターは褒めてくれないと死ぬ、みたいなハッシュタグが年がら年中Twitterを騒がせている。

ただそもそもインターネット上のものはすべて表現なのか。『おなかすいた』というツイートに『あなたがおなかをすかせている間にも飢餓で子供が死ぬ』とリプライすることは良いことか、または『おなかすいたなんて空腹感を6文字で、さらに全部ひらがなにする事でなんとなしのゆるさをもたせるツイート、オレでなきゃ見逃しちゃうね…』とリプライが来て嬉しいのか。それは違うのではと思う。全てを表現とすると、旅先(旅行ブログ)や食事(食レポ)、睡眠(睡眠時間バトル)など生活の一部がどんどん表現となり「もっといいとこ行けよ」「ジュース飲んでんじゃねーよハゲ」「糞して寝ろ」など様々な声が寄せられるようになる。最悪のトゥルーマン・ショーである。

この相互関係が張り巡らされるインターネットでは開かれた内輪ネタ(オープン・クローズド)とでも言うのか、反応を期待しない表現みたいなのが一定数必要ではないだろうか。第三者からはどう見えたっていい。個人がそう思っていれば良いのだ。それが精神の安寧にも繋がり、ちゃんとした狙った表現をする際の重石にもなってくれるんじゃないか。

ちなみに内輪ネタというと

お前たちの内輪ネタを教えろよ。 | オモコロブロス https://omocoro.jp/bros/kiji/221366/

という記事がとても好きなのだが、これはまさに反応を期待しない表現の行き着く先ではないかと思う。ちなみに自分が属する内輪ネタでは「固有名詞にティニをつけて発言する」というのがあります

 

まぁとにかく、何でもかんでも表現とすると肩身が狭くなり肩甲骨に良くないですよということだ。そういう表現がバズってこそだろうが!とか言われたらそれはもうおしまいですが。

 

初心表明(2022年)

あけましておめでとうございます。ということで今年の抱負など。

抱負というか実感として、「続く」ということが大事だということがわかってきている。世間に目を向ければSDGsという標語が跋扈し宇宙船地球号なんてのも古い標語だけど、そういう自然とか人類とかを持続させようという考えが浸透し始めている。インターネットにおいてもコンテンツごとの時間は短くなっているが社会なんて巨大なものでなくとも、私自身の人生は今この一瞬において連続性を持つものだし、時間は今を起点に相互に干渉し合うことができる。星野源の楽曲いわく『日々のゲームは続く』ということなので何もかも続けること。そうするとそれ自体が力になる、みたいなことになっています。こういうのをカタカナで言うとライフプランなどというのでしょうが。

大振りなことしか言っていませんが、まぁそんな感じで。全てはここからの地続きです皆さん。