続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

読んだ本(「目的への抵抗」「愛」)

國分功一郎『目的への抵抗』を読んだ。

話の発端は政治への応答だ。しかしこの本は必ずしも政治の枠組みには収まらない。「はじめに」にあるようにこの本のテーマは「自由は目的に反抗する」ということだ。趣味に少なくない時間を使うオタクとしては「真の自由とは行為が目的を超えた(=没頭した)状態だ」という言葉は我が意を得たりというものでいぇいいぇいという気持ち(これは宇野常寛「庭の話」でも語られている)。そもそも「不要不急」という尺度自体が、もともとそういう必要/不要という軸が存在しない物事を測ってしまう暴力性を持っているというのはそうだろう。何度もハンナ・アーレントが引用されているので今後読んでみたい。

苫野一徳『愛』を読んだ。

序文から「わたしは、「愛」の本質を明らかにした。」と言い様々な引用と理論的な筆致で「愛」にマジで迫っていく本(書きっぷりがちょっと硬いので読みやすくはない)。結論は『愛は「合一感情」と「分離的尊重」との弁証法だ』ということなのだけど、個人的には「愛は明確にそれと感じられるので、理論ではなく経験に基づいて考えられるべき」とか「恋は去来するものだが愛は意志でもってその理想へ近づこうとするものだ」とか細かいディティールの詰め方が好みだった。読み通すと「なるほど!」となる。あと切々とテンションが高い感じの著者の人となりが普通に好きです。

 

話はずれるけど、ツイッター(頑なに)でエビデンスの有無についての話が出ていた。まぁエビデンスがあるとかないとかそういうものを信じるとか信じないとかそういう話。もちろんツイッター的にはエビデンスが無いものはカスという論になるのだけど、みんな大好きメディアの特性を表した謎の絵を見ても分かる通りエビデンスというのは何を見せるかであって、正反対の論を支える正反対のエビデンスが同じものを指していることはありえる(少子高齢化ってだけでこんなに言いたい放題言えるくらいだし)。となるとエビデンスがあるもんを信じすぎる、エビデンスがあることを信じる理由にするのはやはり危なっかしい。そしてエビデンスを信じることは現実を信じることで、現実を疑う時にエビデンスは邪魔になりえる。相変わらずこういうエビデンスの話になると社会学が叩かれていて(というか火種の記事も社会学の人が書いたものだし)は~んとなるのだけど論理とか哲学とかはみんな興味がないのでエビデンスがなくても怒られにくい。と書くと上の二冊にエビデンスがないように見えるがそういう話ではなくて人の思考にエビデンスは「元々」ないのだ。まじの驚きはそういう「元々」ない物によって引き起こされる。感想は書かなかったけどティム=インゴルド『応答、し続けよ』にこんな言葉がある。「人の考えは思いがけずやって来るもので古くからの考えの諸断片を新しく並び替えたり組み合わせたりするようなものではない」。自分は、そういう考えを現実に固着させるための格闘を見たいのかもしれない。読んだ本を振り返るとそういうことを思ったりするのです。