続けてもいいから嘘は歌わないで

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感情を表に出す技術


感情を表に出すのは技術だ。技術は使わないと鈍っていく。電車の中で泣き叫ぶ子供を見ると俺はいいなと思う。子供が持っている自分の感情を全身を躍動させる運動として表出させる技術を、自分は完全に失ってしまった。寝れないとか暑いとかそういう感情は運動として吐き出していくべきだ。がんばれ若人。と泣き叫ぶ子供を見て思う。
というのも、うれしいことがあったのである。それはある意味人生の節目でありネットの体験談を見ると「泣きました」「ガッツポーズしました」など大ぶりな感情表現がたくさん出てくるようなものだった。しかしそれが確定した際、俺は「ふぅ」と思った。「とりあえず」とも言った。そしてそんな感じで当日は終わった。それは結果が良くなかったわけでもなくただ、物事から生まれたうれしさのエネルギーを自分がうまく処理できていないからこうなったのだと思う。確かにエネルギーはあった。腹の底がアツくなり手足が震え呼吸が浅くなる感覚。脳より先に身体からエネルギーが生産される感覚が、嬉しいという思いとともに去来した。しかし去来しただけですん…とエネルギーは消え俺は電話口で「とりあえずわかりました。ありがとうございます」というだけだった。
なんでそんなことになったんだろう?もっとあのエネルギーを有効的に利用するべきじゃないのか。そんなことを俺は思い突如カラオケに行った。道中客引きの女の子を見かけて買おうかと思った。これはこういう時そういうことをするテンプレってあるよねという思いからだ。でもよくわかんないのでやめた。そしてカラオケで一人で歌い踊ると(俺にとってカラオケは身体を動かすこととセットだ)徐々に活力が戻ってきた。おそらく身体で感情を表現することは技術であり慣れなので、身体を動かすことで感情が追い付いてくるってことなんだろう。しかし1時間でそれは終わった。しかも終わった後ひどく疲れた。俺は身体で感情を表現する術を失っているし、感情を表現する体力もないらしい。これが老いなのか。と、とぼとぼ帰り風呂を浴びた。
そこから数日経ち、うれしいけどそのうれしさを悶々と持て余しているある日、ダフト・パンクの「Digital love」を聴くとなんだかとっても泣けてきた。急に曲に合わせて.うれしいことやうれしいことが起こる過程が思い出されそれが有機的に結びついて来る感じがあった。そのつながりは紛れもなく俺がやったことで俺の行動が嬉しいことを起こしたのだ。俺の行動が一つの実を結んだのだとやっと実感した。その時初めてちょっと泣いた。
思うに自分はその場での感情表現が下手で、物事に対してその場でやったーとかふざけんなとか即興で思えないのだと思う。これはインターネットのしすぎで文字を文字のまま受け取り裏の意味を読まない仕草が身についてしまったせいかもしれないし、その方が人によく見られるという悪く言えば中二病的なマインドがまだ自分にあるからかもしれない。良く言えば思慮深く物事を判断し早計な思いで感情を出さないとも言える。
そして腑に落ちるのが遅い反面、起きたことを後で思い出したときにあのとき本当にうれしかったなとか怒っていたなとかを思い出すタイプなんじゃないか。感情のグラフが一気にピンと跳ねるのでなくじわじわ上昇してある時「嬉しい」の閾値を超えるというか。具体的に言えば良いことがあってもそれを帰り道の電車でしみじみかみしめるのが好きなのかもしれない。でも確かにそういうシーンは好きかも。ポケモンの映画ルギア爆誕のラストシーンは花々が咲き誇る孤島でロケット団が「なんだかとってもいい感じー」と言って幕を下ろす(と思ってるのだけど調べると初期ポケモンの映画のラストはたいていこのセリフらしい。急に信憑性がない)。このなんだかというのが自分の実感に近い。物事が映画だとして、最後になんだかいい感じーという立場でありたい。
そんな遅効性の喜びを感じる自分にとってDigital loveの速度がちょうどよかったのだ。桜が地面に落ちる速さは秒速5センチメートルだという。俺の喜びの速さはDigital loveの速さだ。