続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

犬について僕の語ること

我が家には犬がいて、その始まりは誰が欲しいと言ったのかは忘れたけど、何かしらの犬の需要が発生し、利根川上流の方のブリーダーに向かったことだった。もううろ覚えだけど、そこには結構な数の犬がいてその中からミニチュアダックスフンドという犬種を欲しいということになった。正確には「ミニチュアダックスフンドカニンヘン」と言ってミニチュアダックスフンドのさらに小さいやつである。

そして、ある一匹が選ばれた。彼女は何らかの血統書を持っていて親は立派な犬だったらしい。それこそ何かのモデルのような。でもその血を継ぐ彼女は何故か首の毛が逆立って生えており、モデルとしては不適格だった。しかしそんなことは評価に寄与しない我々家族に見出されて、家族の一員となることになったのだった。そんな決定がなされ家に向かう車中、小さい彼女は車が苦手らしく、後部座席でぷるぷると震えていた。

 

以後彼女はケージに入れられたり出されたりしながら、すくすくと育った。一応「待て」は出来たし(餌を前にして、という条件下においてのみ)「お手」も時々出来た。小型犬なので基本屋内にいたが、散歩の際は我先と飛び出し、外界のものをよく嗅いだ。野草はとりあえず食べていた。人よりストロークが短い脚を高速で回転させ、30~40分は飼い主を先行した。他の犬には割合好戦的に向かっていった。その特性ゆえ、リードを離すことが出来なかった。しかしいざ離すと、こちらを振り返りながらおずおずと歩いていた。その姿はいつもより小さく見えた。

人懐っこく、客人には飛びつく犬だった。しっぽをちぎれんばかりに振っていた。床に寝っ転がるととりあえず顔を舐めにきた。人懐っこいのが行き過ぎて、家族の外出には敏感に反応した。少しでも玄関のドアが開くと吠え立てて、早朝に外出する家族を困らせた。とにかく吠えるし、なんなら玄関で見送ったあと物置(当時自転車がそこにあり、玄関→物置への移動が常だった)が見える位置に先回りし、吠えていた。それが癖になり自転車を使わなくなっても先回りはやめなかった。帰宅時も玄関まで迎えに来てくれた。帰宅後しばらくかまってあげないと吠えられた。

ちょこちょこと移動する方で、階段は4段くらいまでなら登れた。ダックスフンドは足が短いので、段差はあまり推奨されないけど。食卓の椅子に登ることもあった。食卓に登ると前足をテーブルに掛け、食事の匂いを嗅いでいた。

しかし彼女も晩年になると、動きが鈍り始めた。散歩に行かなくなり(その分庭の雑草を食べていた)、階段も登らなくなった。そのうち寝る時間が増えた。陽だまりが好きな犬だった。よく晴れた日はあたたかな窓際のカーテンの中に隠れ、家族を惑わせた。温かいところで寝すぎてホカホカになると水を飲み、玄関とか廊下とか涼しいところで寝ていた。彼女なりに整っていたのだろうか?また、人に寄り添って寝るのも好きだった。ソファで寝っ転がる人の背中とか、テレビを見る人の膝の上とかによく乗りたがった。あたたかいからだろうか。これは最晩年まで変わらなかった。というか、より人との距離が近くなり立っているときも足の甲に乗ってきたし、帰宅後のかまいの要求も多くなった。

世の中にはペットが好きな人がたくさんいて、服を着させたりそれで写真を撮ってあげたり定期的にドッグランに連れて行ったり犬も食べられるケーキっぽいものを食べさせたり散歩と言いつつ乳母車に乗せたり一緒にお店に行ったり泳がせたり様々な娯楽をペットともに楽しんでいる人もいる。それに比べてうちの家族はそういうことに疎かった。というか、必要性をあまり感じなかった。服着せても脱いじゃうし、車怖いから遠出できないし。

みたいなことを書いていると薄々感づく話だけど、彼女が亡くなったのだ。体調が見える形で良くなく、病院に行った4時間後のことだった。死因は老衰であり、穏やかに往生したと言えると思う。実感というものは感じないが、ふと家の中で彼女の足音を感じたり、カーテンの中にいるような気がする日々が続くのだろう。例えば点けたままにしていたリビングの電気を消すときとか。

 

ペットの葬式というのは人間と同じで火葬と納骨の2段階が存在する。亡くなった翌日、火葬場に行った。火葬の前に一応遺体を安置して、目の前でお焼香をする。なんか変だなと思いながら線香を灰に指し、鈴(正確な名前は知らない)を鳴らす。正直このときが一番死を実感したかもしれない。人間の更に仏教に根ざしたシステムをそんなこととは関係ないペットの前でやることで改めて死を実感するなんて変な話だなと思った。そこで毛を一房切り、彼女は火葬された。骨は骨壷に入れた。動物の骨ってあまり意識したことないからピンとこなかった。毛の方が、本質的だと思う。

 

そんなことからしばらくあったあと、馳星周直木賞受賞記事を読んだ。その中で、「犬は無償の愛を教えてくれる」と言う記述があった。そうなのかな、と思う。晩年にやけに身を寄せてきたのも無償の愛だったんだろうか。そういう時に鳴かない犬だったけど、あの膝の上に乗った時の重みと人間より高い体温は無償の愛だったんだろうか。わからないけども、そうであったらと思う。