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危険なツッコミ性

色んなものに名前を付けてやると迫ってくる人がいる。例えば「ポリコレカードバトル」とか。これが男女の関係についてだともっとひどい言葉になったりもする。書かないけど。そういうものに対して俺はずっと「なんでそんなひどいこと言うんだろう」と思っている。世の中には様々な議論があって長年続いているものもある。その議論に論点は無数にあるのに、ぽっと出の人間が議論全体を一言で言い切ることなんてできるだろうか?でもそういう無理難題をお手軽な言葉で短く収めちゃう人がいっぱいいるのだ。コスパだなんだと言って短い時間で多くの情報を摂取するのが美徳となりつつある現代なので、だらだらと長文を読んでいられないぜと思う人がいっぱいいるからだろうか。そうかもしれない。
個人的に思うのは、名前を付けることのインセンティブとして「上手い事言ってやった」感が働いているのだと思う。では上手い事って何か。それは一つの構造に対して一歩引いた、オルタナティブな視点を獲得することだ。
そして思うのだけど、それって『ツッコミ』性じゃないだろうか。

ツッコミはボケの仕組みを正す役割を持つ。ボケが変なことをしていれば「なんでやねん」とその行為を一歩引いた目線で正す。正しさで言えばボケ<ツッコミとなる。
『笑いの構造』というNHKの特集が年末にあって色々な芸人が出演していた。その中で明言されていたのが「ツッコミの地位の向上」だ。特に現代においてツッコミ芸人は重宝される。それはツッコミという芸の持つオルタナティブな性質が「まわし(複数人にバランスよく話を聞いて番組を円滑に進めること)」や「ロケ(町の人を巻き込んで番組を進めること、もしくはそれをスタジオで見ること)」といったテレビの番組内容とかみ合っているからだ。昔はじゃない方芸人だったツッコミはいまや花形になっている。そういう証言を色々な芸人がしていた。そしてテレビの構造や芸人のふるまいは一般人にも影響を与える。一般社会の会話やインターネット社会の中でもツッコミの重要性は増していると考えられる。
そしてツッコミの地位向上によりツッコミ自体のテクニックも進化している。たとえツッコミ、のりツッコミ…こういった技術はどんどん社会に輸出され粗悪品が出回るようになっている。その1例が冒頭に挙げたポリコレカードバトルだ。これはポリティカルコレクトネスの議論をカードバトルに「たとえた」、たとえツッコミの系譜に位置するものだ。この言い回しを思いついて誰かはさぞ気持ちよかっただろうし、実際この言葉はキャッチーでネットでも散見されるようになった。しかしたとえはあくまでたとえであり本来の議論上ではこの言葉は何の意味も持たない。しかしキャッチーが故にポリティカルコレクトネスという言葉を見ただけで「カードバトルかよ」という人が出てくるのだ。周りにもいませんか?クセが強くないものに「クセが強い」って言う人。
これ全く同じことを前にも書いたけど「上手い事言ってやろう」という気持ちは関係性を鑑みないと危険だ。仲良しの間柄ならいいけどこれを不特定多数の前でやって、しかもウケたときに促進されるのは事物への理解とは異なるただのノリの良さでしかない。NO上手い事 YES誠実な説明