続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

日記を読みたい

日記が好きだ。人の何でもないブログを読むのが好きだ。

そう言って自分はそんな感じの文章を細切れにしてTwitterに投げつけている。いや最近はそれすらもなく、「あれあの時何してたっけ」とTwitterを遡っても「つらみ」みたいな呟きしか残っておらずライフログとしてのSNSの脆弱さを感じている。

 

この日常というのは本当に「商店街で買ったさつま揚げ美味しすぎた」みたいな事だ。Twitterでこんな文章を見ると嬉しくなる。最近だと「ウクレレを買って毎日練習をしています」という呟きは良かった(もし書き手がこのブログを見ていたら勝手に書いて申し訳ない)。フォロワーがウクレレを買って練習しているのだ。こんな良いことばかりであってほしい。

 

これらの何の意味も文としては持たない仕草、行動が好きなのはそれが人の心を打てると知っているからだ。ネット社会はとかく文章が上手い人が多いので、書いていることに意味を見出しがちだけどそんな解釈がなくても良いものは良いのだ。人は人に心を打たれるし、逆に人の心を打つことができる。

 

と、唐突に思ったのは「誰もが発信者になれる」時代なんて呼ばれて久しいなと思ったからだ。その結果は見ての通り、「誰もが発信者になれるわけではなかった」というのが分かった時代だった。

発信というのは口を開けて言葉を発音することではなく、発信するに足る下地があっての事だなんてのは石を掘って言葉を残した時代には当たり前だったのだろうけど今や親指一つで文字が打てる時代、発信欲は発信という行為に追い越されている。何かあれば、何もなくても意味のある言葉が渦巻き、様々な思いを湛えた大海を巻き上げ膨張し全く関係のない場所に豪雨のような思いを降らせ消えていく。

SNSには意味が溢れ過ぎている。意味の自家中毒だ。意味を持たせれば別の意味に突っ込まれ、無意味と言われる。意味疲れ。意味の飽和。

 

意味はもう良いのだ。事件が起こって、それに対する色んな意味が錯綜している。もうたくさんだ。事実が大き過ぎてそれを切り分けるには大きな意味が必要で、それはコモンセンスの何かだったり大義だったりする。そんなデカい刃物は一般人では降りかざせない。ソーのハンマーが重すぎるのと同じだ。大義を振りかざしましてや人を事象を斬るには大変なトレーニングが必要だ。そのトレーニングを積んでいない場合、それは大義を発信するに己が足りてないということなのだ。知が足りない。思慮が足りない。視野が足りない。全てだ。巨人の肩にすら乗れていない。

 

意味を持った言葉を発するのは怖いことなのだ。と思う。誹謗中傷だけでなく、全ての言葉がそうなのだ。

だからではないけれど、小市民な自分は行動をするしかない。他人には意味がない人生を重ねていくしかない。もしくは大義を掲げるトレーニングを積むのが良い。どの巨人に乗ろうかなと探すことから始めるしかない。それも意味のない人生のワンシーンだ。

だから、他人に意味のない、自分に意味のある、人生が綴られた日記が好きだ。自分はそれに動かされるかもしれないから。