続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

老害

なんかいい感じのこと(~という論文でこんな事が言われています)がRTされてきて、でもソースが提示されていなかったのでそれを根気よく探したら1999年の論文でがっくり来た、みたいなことがある。これに限らずネットの話題が10年単位で昔の話を掘り返しているだけというのはよくあるのだけど、とかくファクトなんてことが言われていると「それソースあるんすか」みたいなことをすぐ調べたくなる。で、調べるのだけどこれが果たして『正しい』のかもうわからない。もちろん俺の中では『正しい』行いでオレはオレのリテラシーを守るためにそれをやっているのだけれど、これを規範として周囲に押し付け始めたらそれは老害になるのかなと思う。

 

老害というのは急に出てきた言葉っぽいが、なんかそういうことに引っ掛けた話題を見ることが最近多かった。かくいう自分も仕事場でそういう処理をやっていることが多い。具体的に言うと市井のパソコンスクールみたいなことだ。しかしやってて思うがいずれこれをやられる立場になるんだろうなと言う気もしている。いずれテクノロジーに置いていかれるのだろうと思う。そういう時どういう顔していればいいのだろうか。こういうところにこういうネタを挟むのもちょっと古い。

 

最近麻婆豆腐をよく食べるが、かなり店によって解釈が違って面白い。黒っぽい麻婆豆腐が好きです

エヴァンゲリオン見ました

エヴァンゲリオンを見た。ので、感想というかそういうものをバーッと書こうと思う。この時点で感想を言うならそういうことを書きたくなった、というのが感想として機能すると思う。

留意点としては基本的に新劇のレベルでしか書きません。旧劇付近はかなり曖昧なので…。

 

※この辺からネタバレが含まれます

 

まず、ストーリーの話からするととても良かった。意志とそのアウトプットとしての演出、作劇、画面がとても良くマッチしていたと思った。

おそらくこれほどまでにエヴァというコンテンツが語られている理由は旧劇原作のあまりにもな終わり方というのが大きいと思う(語りたく/受容したくなるという意味で)。その点で言ってしまえば新劇もそこは踏襲していて、それもかなり細かく踏襲している。でも、破綻はしていない。演出をしきっている。そのメタ構造をもコントロール下に置いている。そこがメチャクチャにすごいことで「良かったな~」となる要素だと思う。それを演出力が上がったからと言ってしまえばそれはそうなんだけど、なんというか観客側にもその担い手としての役割があった気がする。

エヴァンゲリオンは「ATフィールド」という仕掛けを駆使してヴィジュアル的に人との関わりを描いている。それはエヴァンゲリオン世界の根幹をなす考え方でなんかそれが人類補完計画的なあれにつながったりもしている(この辺は曖昧)。

そしてエヴァンゲリオンは旧劇の終わり方的に考察、メタ読み的な触れられ方をそれはもうハチャメチャにされていて正直作品後に全くメタ的な視点でない事実のみの考察なんてものはもう見られないような形になっている。エヴァンゲリオンはメタ視点とセットであり、それがエヴァンゲリオンと鑑賞者の関わり合いの大きなウェイトを占めている。メタは作品と作品外の知識を結びつける、いわば「相補的」な行為である。

相補的というワードは新劇でも出てきて、カオルくんがシンジに対して「君は相補的だな」なんてことを言っていた、気がする。でもそれが妙に耳に残っていてこの相補的というワードはやっぱり新劇の一つキーワードではないかと感じた。

新劇もさっき言ったように究極的には楽屋落ちでメタ落ちなのだけれど、それはエヴァンゲリオンと鑑賞者の間では正解の関係性だったんだろうな、みたいなことを鑑賞後に思った。旧劇を超えるという意志が新劇にはあっはずだしそれで同じ(ような)オチを行うのはかなりやばいことだと思うのだけど、それをしっかりと関係性という枠に収めきってやりきっているのがすごい。それは相補性という製作者と鑑賞者の共犯関係を信じられたからこそできたのでは…といや、なんというか多分これを語り始めると全体的に意志というか心意気というか、なんとかインパクトが起こったときのデカ綾波とか絶対にあんな金かけて全国に配給する画面ではないのでとにかくすごい。

 

作画の話。

エヴァンゲリオンくらい絵がうまいともう絵とかそういう次元ではないわけだけど、後半の目の辺りにブラシを掛ける効果をアニメでやるのすごいな-になったし海岸に寝転がるアスカの特殊ブラシ効果がエロすぎるし横顔の涙袋に影を入れる変態作画がすごいし幼少アスカはなんか鶴巻さんだな~という雰囲気だった。

あと爆発が全部すごい。

 

鈴原サクラの話。

まぁ怪文書とか感情を載せやすい感じなのはめっちゃ分かるがあそこでシンジの禊みたいなのを終わらせるキャラとして最高の演出だったしそういう役割がとても優秀だったので良かったです。

 

なんか他にあったら書きます

 

 

 

ふだんづかいの倫理学

『ふだんづかいの倫理学』を読んだ。個人的にはとても良かった。

タイトル通り、倫理というものが普段我々が暮らしている日常の上でどのように適応されうるか(もちろん成立を考えれば矢印が逆だけど)を豊富な例を盛り込み懇切丁寧に教えてくれる本だった。

 

もともとこの本を読んだきっかけは「正義」の章の抜粋を読んだからだった(このことは以前に書いた)。本の中ではこれは社会の倫理として紹介されている。他にも個人、身近な関係を挙げ計3つの領域の中でそれぞれに倫理がどのような形で作用しているのかを考えていく。各領域における倫理とは、社会は「正義」、個人は「自由」、身近な関係は「愛」である。本の中ではこれらの言葉をさらに分類し、更にそれらに対応する倫理も細かく分類してくれる。ありがたいなぁ。

こう見ていると、どれもこれも極端な例が想起される言葉ばかりだなと思う。そう、これらについて一人で考えているとどうしても極端になっていく(本著ではその極端さがそもそも思考の方向性が違うことに起因する、みたいな例も挙げられているが)。それを極端でなく、確実に推し進めていくための一助がこの本だと読後に思った。

社会にしろ人間の関係にしろ、問題は山積している割に全体像がつかめず、例えば「この山をなんとか乗り越えて見晴らしのいい場所に行きたいけれどどうやって登れば良いのか、最初の一歩目はどこに踏み出せば良いのか全くわからないなぁ」ということが多い。もちろんいろんなコースはあるのだけど「どうにもうさんくさい」というルートが無数に設定されている(SNSのアイコンに国旗が書いてある人ルートとか、トレンドワードにひたすらハッシュタグつけて『こんなに稼げました』という言葉とともに札束の写真を上げている人ルートとか)。

そんな時、「このルートは確実に山頂につながっております。途中までだけど。あとこの道ぬかるみがやばいけど」というのを教えてくれるのがこの本なのだ。途中まで、というのはもちろん山頂が1つでなく人に応じてそれぞれの山頂があるから(山頂って例えが良くない。~合目でいいですか)で、ぬかるみというのはこの道が格段に思考力を要求してくるからだ(本読んだのにたとえで説明するバカさ!)。でも確実に前に進める道なのだ。それを選べるか、選ぶかどうか考えられるかどうかが大切なのだ。

 

何が言いたかったのか忘れたけど、とにかくいい本なのだ。最後に本を読んでよかった例を1つ。

3.11で奥さんを失って意気消沈していたおじさんが町内会のみなさんとのふれあいで笑顔を取り戻し最後には村の祭りのたいこを力いっぱい叩く、みたいな映像を最近見た。そしてこのVに「良かったね」でなく「これはあれだ!」と思えるわけである。おすすめです。

 

正義/分断

「正義とは健康のようなものである」と読んでいる本に書いてあった。(はい。今回は本の引き写しです)

健康とは体内の常在菌とかそういうものの均衡の上に成り立っており一度それが破壊されるとかなりやばいことになる(最近ずっと腰が不安で、かなりやばい)。正義も均衡の上に成り立つもので、それは相互性という原則である。相互性とは「私はあなたを脅かさない」だから「あなたも私を脅かさない」というものだ。

つまり正義は見えないがないと意識されるものである。かつ「あれ/それ正義か」「せいぎがあるかないか」なんてものはどうでもよく「正義は在らないと(作られないと)いけない」ものである。ということが書いてあった。

國分功一郎が「分断が何だって最近はしゃいでいる人が多いが、分断は古来から確実に存在しており分断の存在が問題なのではなく、分断が在ることを認識した上でどうするのか、が問題だ」とTwitterで言っていた。これは正義の問題と似ていると思う。本の中でも「正義」について言い争っている人は往々にして正義のなされ方、手段について言い争っているだけである、みたいなことが書いてあった。Twitterはほとんどそんなものだ。大義について語るようで大義の手段について語ると、大義を語った気分になるのだ。自分があたかも大義の執行者になったような大きい気持ちになるものだ。大きい気持ちは最高なので耽溺しがちである。注意せねばならない。

というような社会的な思考を一段階深く掘り下げてくれる思考を得られる『ふだんづかいの倫理学』、とてもおすすめです。まだ全部読んでないけど。

 

黒歴史は青春だ

黒歴史という言葉はかなり人に膾炙していてその分意味も拡散していると思うけれど、巷で使われているような『恥ずかしい/見せたくない過去の遺物』という意味であまり使いたくないと思っている。それは創作を楽しんでいる者として真摯な姿勢ではないと思うからだ。とはいえ昔の制作物をみだりに見られて良いのかと言うとそういうことではない。それらはとても技量が足りていない制作物だからあなたがやめたほうが良いですよ、という意味で見てほしくはないのだ。

つまり黒歴史の産物は自分にとっては意味がある(まあ制作物だから意味はあるに決まっているが)もので、その意味が他人にとっては意味がないから黒歴史なのである。自分にしか伝わらない意味(こういうのを尖った批評的文脈でオナニーなんて言ったりするけれど普通にダサいのでやめたほうが良いと思う。オナニーって常にそういう気持ちで行うものでもないし…)で固められた黒歴史は作者本人にしては重大な歴史だし、だから昔の作品を「はっは。これは黒歴史ですよ」なんて態度を第三者に取るのは作品に対して真摯ではない、と思う。なんなら青春ってそういうものでは?とも思う。青春は体感している本人にとってしか意味を持たず、第三者から見たらマジで意味不明だからだ。青春と黒歴史は同じということがこれで証明されました。よかったですね

顔を出す

顔というのがよくわからない。インターネットに顔出しはしない主義なのだけど冷静に顔が出たから何なんだ?という思いもある。もっと重要な情報を四六時中垂れ流している気もするし…。でも顔を出すのはあまり気乗りがしない。それは例えば鍛えていない胸筋を世に晒すようなものではないか。結局、顔に自信がないのだろうと思う。自信があれば顔も出すだろう。そしてこの自信というのはイケメンだとかそういうものではない。自信を持つように手を加えられているかどうか、商品として価値があるかということである。顔に手を加えると言うとあまりいい表現でないような気もするが、世の女性はほとんど化粧をしているだろうしそれは手を加えていると言っても良いと思う。そしてきっと化粧はそれなりに面倒でそれなりに面倒ならば作業の対価が欲しくなる。だから顔を出す。

ふりかえって男性の顔面は主に無添加であり無修正であり、まぁあんまりそういうものを世に出す気はしない。インターネットに何かを乗せることはその時点で辺に文脈を持ってしまうものだし、乗せるものは何かしらのスペシャリティを持つものとみなされる。スペシャリティを判断できるような判断軸を顔に対して持っていないしそんな知識もない人が顔を出すことはまぁデメリットはあれどメリットはないということになる。

という話が1つと、もう一つは自分は絵を描いているということで顔と向き合っている。絵の殆どは顔だからだ(下手な人のいいわけです)。そんなことをしていると顔のパーツに少しずつ興味が出てきていい顔というのがわかってくる。そうすると対照的にマズい顔、主に自分である、のこともわかってくる。そういうわけで顔のことについて最近考えることが出てきている。人間はみんな顔を持っているので意識しだすときりがない。どうにも大変だ。

 

 

 

一緒でいい

常に違うことを求めるというのは人の性であると思っていたけれど、例えばそれがアイデンティティの話だとして、アイデンティティはある特定の所属を持つことである、となりつつある。一人ぼっちではアイデンティティは確立できないと言うことを多様性という形は認めてきている。ただそれは初期の多様性であって、その道の先にはまた違う何かがあるだろう。しかし生きている間にそこに辿り着く感じは到底していない。だから一緒でいいのだと思う。いや、実は違うのだけど。違うことは分かっていても一緒であろうという志はかなり大事だと感じる