続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

日記(ドミニオン・lighthouse)

某日

起きる。小康状態。何時間寝ても深い睡眠が取れてないと判断され睡眠スコアが上がらない。深い睡眠とは何なのか。芸能人がテレビでウケた映像を自薦するバラエティを見る。昔のテレビの勢いは良い。ザ・ベストワンの男性ブランコのネタがあまりにラーメンズめいていて、おっとなる。

昼を食べ昼寝したりティアキンをしたりする。月の中盤に色々予定があるので諸所の連絡も済ませる。偉いことこの上ない。

夜。友人等とドミニオンをプレイ。良いボドゲだ。勝利に必要なフェーズが二段階あるのが巧み。そしてここからハートオブクラウンを考えた人もすごすぎる。ひとしきりプレイして別通話で東方のキャラ一覧を見る。知らないキャラもかなりいる。そして曲が概ね良すぎる。このZUNって人ずっとゲームも音楽もストーリーもキャラも作り続けていてすごい。何かしらを受賞したほうが良い。早めに寝る。

 

某日

ほぼ体調は治っている。朝ご飯を食べYouTubeを流し、一念発起昨日を取り戻すように外出。寒い中lighthouseという本屋へ向かう。ウェブ記事で見かけたことがありおそらく今の自分の興味範囲と重なる蔵書がある本屋のはずだと思う。

jbpress.ismedia.jp

実際にお店に入ってみると狭い店内にぎゅっと本が詰め込まれている。緩やかにジャンル分けされた本は雑誌も単行本も一つの棚に入っており見ていて楽しい。欲しいものリストにある本も結構ある。かなりじっくりとためつすがめつして、結局2冊購入。『ナチスは良いこともしたのか』『まとまらない言葉を生きる』前者はTLで見ており読んだことがなかったから。後者は図書館で待ちすぎたから。ともかく人文学とか倫理とかに興味があるかたにはおすすめの本屋さんだ。近くに珈琲店もありおしゃれな一角でもある。帰りにブックオフで木彫りのクマを見て帰る。帰りしなカフェラテを飲みながら買った本を読む。この贅沢よ。

晩ごはんを食べて寝る。

ミームで会話してしまうことのちくわ大明神性について

Twitterで『会話をミームでしか行えないオタク』というトピックを見た。この言葉は最近の自分の危機感と一致している点があった。つまり俺はミームを使いすぎている面がありそれによる支障も自覚している。本当にいいのか?というか、本当にミームが悪いのか?

 

まず、ミームとは何か(ネットリ)

ミームという言葉は海外のもので、定義を引いてみると『脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報であり、例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である』と出てくる。かっけ~。Wikipediaまんまの話をしてもつまらないので格を落として言うと、ミームとはインターネットオモシロワードのことだ。昔で言えばコピペである。今TLを席巻している猫ミームとかがいい例。ミームの特徴は節操がない広がりにある。ミームはそのネタ自体でありネタが広まる過程でもある。ニコニコ動画で新しいアニメの一部分が流行るたびに音MADが作られていきその元ネタが古くなっていき…太古のフタエノキワミやチルノの算数教室に到達していくような、広がりの過程。それがミームだ。この節操の無さというのは大事で、ある一定の条件下でしか使えないミームは廃れる傾向にあると思う。もっと幅の広い何にでも合うが素材本来の味は失われない微妙なバランスが古くからのミームにはある。

 

急にミームが来たので

何故オタクはミームを口にしてしまうんだろう。その原因の一つとしてミームが内輪ネタだというのがある。人は自分と共通点がある人と関わりを深く持つ傾向にあり、オタクは特にその関係性を知識や、知識のバックボーンに見出す。同じアニメを見ている、同じ音楽を聞いている…そういう文化的情報をいちいち説明するのは面倒だが、『あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~』と一度口にすれば、ミームを理解する者同士で『10年代中期のきららアニメ作品をニコニコ動画で視聴していました』という情報交換が成立する。ミームには分かる人にはわかる大量の情報が埋め込まれておりこれを発し、受容された瞬間には得も言われぬ幸福感が伴う。この快感を求めて日々オタクはミームの交換に勤しんでいる。

 

じゃあなんスか。ミーム使っちゃだめっていうんですか

ではミームというものが最初のツイートで指摘されるように何故悪いものとされるのか。それはミームがあくまで内輪ネタでありネタがわからない人には意味不明な文字列だからだ。古いミーム(コピペ)の中に『ちくわ大明神』というものがあるがネタがわからない人からすればミームはまさにこの『ちくわ大明神』に過ぎない。会話の脈絡を無視して唐突に投げ込まれる意味のない発言。これを人前で繰り返すことがゆくゆくは人間関係の喪失につながっていくことは明らかだ。こうした長期的で実際的な問題の他にミームは会話における別の問題をもはらんでいる。リチャード・ローティという政治学者は、会話を『それ自体が営まれる以上の目標がないもの』と定義している*1。そしてこの会話はある方法で毀損されるとも。それは会話が多様性を失うことーーつまり"「会話を打ち切る」タイプの言動がはびこること"だ。そしてミームはこの「会話を打ち切る」タイプの言動に他ならない。例えば「お昼、パスタかそばどっちにする?」と聞かれたときに「答えはお死枚…☠ 死神クイズに正解者はいらない」と返したとする。この会話はここで打ち切られてしまう。質問者がハンターハンターを知らないときこの答えは何も意味しない長ったらしい謎の回答であり会話は成立していない。これが冒頭の『会話をミームでしか行えないオタク』という言葉がなんか悪い意味に取られる理由ではないかと思う。ミームはそれ自身の持つ内輪ネタ性により会話を打ち切ってしまうので、良くない。こうしてオタクは会話ができず孤独になる。

 

あなたがミームを発するときミームもまたあなたを発している

とオタクを看取ったところで…しかしミームっぽい考えはオタクコンテンツの切り抜きだけにとどまらない。我々が社会で会話をするとき、その会話に他人の言動をコピペして対応してしまうことがある。youtubeで見かけた動画の名言を引用してしまうことがある。それがミームでなくとも、自家製のミームを発してしまうとき自身の会話の多様性は人知れず失われていく。また、このミーム(コピペ)の出どころが権威的な人物だったりするとたちが悪い。ビジネスにおいて何でも野村克也の名言を引用する人はミームの隘路に嵌っている可能性が高い。こっちは知らない謎の有名人をすぐ参照する人は自分が気持ちよくなるために名言のコピペを行う傾向にあり、つまりちくわ大明神になってしまっている。結局『~なオタク』というのはインターネット専用の刃であり社会一般でいう『空気の読めない』人がいるというだけなのかも知れない。ちくわ大明神にならないために我々は見て聞いた文字を咀嚼し、自分の血肉に還元していかなければならない。ワイトもそう思います。

 

*1:『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』5章

日記(ジャズ・疲弊)

某日

今年に入ってからSpotifyポッドキャストで、ジャズの番組を聴いている。トラックメイカーであるSTUTSがジャズの有識者に色々話を聞いていくというやつ。

open.spotify.com

音楽は好きだがジャンルには疎いのでこういう番組は大変助かる。プレイリストもあるので、なんとなく流していると良い気分にもなれる。多分ジャズ好きなんだけどどういうふうに楽しむのか?またジャズのジャズっぽさはどこから来ているのか?と知りたい人におすすめ。ちなみにアトロクのポッドキャストでも西寺郷太がEW&Fの解説をしておりこれもかなりいい。Septemberでないメロウな音楽が聴ける。こう音楽を聴いていると、音楽って聴いていい気持ちになってればよくない?みたいな気持ちかある。俺はあまり歌詞を気にしないので曲のメッセージ性に疎く、4つ打ちなら楽しいみたいな考えでハウスを聞いたりしているが世の中でハウスは難しい音楽らしい。でけー音でキックが鳴っているのは良いとPUNPEEも言っている(言ってない)がそのくらいのテンションで良いんじゃないかなぁと思う。

 

某日

仕事で疲弊。

某日

仕事で疲弊。

某日

疲弊が抜けない。

某日

疲弊が抜けずちゃっちゃか帰って寝る。

 

日記(パズル・地域)

某日

TLで外国のクルーが撮影する北陸自身の映像がドキュメンタリーぽくてリッチだみたいな話が出ていた。画面の質の高さはある程度構造と技術で担保できるとして、そういうドキュメンタリーとしての映像の凄さで言うと、あるワイドショーでサラッと流れた映像が心に残っている。

北陸地震でビルが倒壊し自宅がなくなった男性が呆然と自分の体験を話しているんだけどその男性が自宅の跡からパズルを掘り出して、そのパズルは当然全く完成せずぐしゃぐしゃで、でも新年にそのパズルを完成させたかった…みたいな話をしている映像が、確かどこかのワイドショーで流れたはずだったのだ。いやにパズルが象徴的だったのでドキュメンタリーとしてはグッとメッセージがあり強い画面だったけど、あれが本当にあったのかもう思い出せない。

某日

ドキュメント72時間の年末スペシャルを見終わる。フジロックユースホステルが面白かったかなあ。なんか憑き物が落ちているような人を見るのがいいのかも知れない。あと雪国ってそのシチュエーションだけで濃い映像が撮れている気がする。寒さがそうさせるのか雪の閉塞感なのか。

某日

store.tsite.jp

これに申し込んだ。こういうトークショーが物理的に行けて2000円くらいなら行ったほうがいい。最近こういうイベントに積極的になろうみたいな思いがある。お金はないけど。ついでにお金周りを整理したら不要な口座がでてきそうなので処分することとした。お金のことを考えている時間は嫌だ。なんというかシンプルに広がりがないし数字で大小がわかったところで何も嬉しくない。お金に困らないということはありえなくて欲望は常にお金を上回るのだと思っている。

某日

会社帰りに会社付近を散策する。会社がある土地を会社としてだけでなく地域と認識することが大事だと思っている。ころころと子供が走っているし狭い郵便局だったり古い洋食屋だったりがあるしチャイが飲めそうな店もある。何件か行きたいところをピックアップしておく。帰宅後友人等と通話し今年のイベントや創作の話。小説をちょっと書く。

 

日記(『はみだしの人類学』・スマートウォッチ)

某日

『はみだしの人類学』を読んだ。「わたし」という認識には、「わたし」の輪郭が強調される『共感のつながり』と、「わたし」の輪郭が溶けるような『共鳴のつながり』があるという部分があり前者は言わずもがな後者は「わたし」を他者によって変えていく物だ、という話がありこの共鳴という言葉には示唆があると思った。著者は人類学のフィールドワークで文化の違う世界を知ろうとすることでこの態度を得たという。この「わたし」の複数性は最近読んでいる本でよく見る概念だ。つまり今考えていることはこういうことなのかも、と思いながら読む読書は楽しい。NHK学びのきほんシリーズは他にも買ったので読んでみよう。

 

某日

スマートウォッチを買ってみる。miband7なので安いののさらに型落ち品。買ったはいいものの駅チカのコンビニ受け取りにしたら退勤が早くなり荷物より早く帰ってしまった。結局到着通知のあと駅まで戻る羽目に。5年前くらいにスマートウォッチを買ったことがあったのだけどその時はすぐ飽きてしまった。今回はそうならないようにしよう。とりあえずアラームをセットして寝る。

 

某日

スマートウォッチ、いい感じ。バイブでアラームがかけられるので電車でも気兼ねなく寝れるし、行動が数字に出てくるのは面白い。睡眠スコアを上げるために努力しているがよくわからない。

 

某日

お休みだけど天気が悪い。ずっと作業したりアニメ見たり。フリーレンを見ていたら熱が再燃したので久々にティアキン。ティアキン、面白いな…。

夜は友人等と生成AIの話をしたり倍速視聴の話をしたり。まぁおおまかにブログには書いてしまったのであれだけど…。生成AIは声や音楽という分野で猛威を振るうだろうという話。YouTubeで明らかに合成音声のナレーションが流れるとなんか嫌だよねとか。文章を一本書く。

 

日記(富士山・ワカサギ釣り)

某日

レンタカー屋へ向かう。友人等と一泊二日の旅行だ。久しぶりに知らない車種の車に乗るので緊張する。細い駐車場からえっちらおっちら都内の公道へ漕ぎ出す。なんで車ってメーカーによって操作系が異なるんですか??

まず別の友人を迎えに公道を行く。知らない街に知っている人が住んでいるという事実は楽しい。知らない道に建つ知っている店を見ながらコンビニで合流。朝ご飯を食べつつ道中の作戦会議をする。車の旅で途中休憩するのってなんとも言えずリッチな気がする。そのまま高速へ。そこまで混んでいる感じもせずSAに入りご飯を食べる。SAのドッグランでは犬が駆け回っておりその前でTikTokを撮っているのか若い男女が踊っていた。犬を見せなさい犬を。SAの対面の山肌にある民家のことを想う。人里離れているのにめちゃくちゃ人里が見えるの、どう思ってるんだろう。

再び高速へ。富士山を眺めながら意外とすぐに湖畔の宿につく。車を降りると空気がひんやりしている。宿にチェックインし和室に荷物をぶちまけ、ローカルケーブルテレビで地域のお悔やみ情報を見る。競馬も見る。買い出しがてら湖畔に出てひたすら遊歩道を歩く。湖畔には白鳥に餌をやる子供連れやトレッキング帰りなのかポールをついて歩く外国人などがいる。湖は広く、つまり湖畔も長い。歩いているうちに陽も傾き富士山の陰影もよく見える。やがて遊歩道が途切れ砂利道になったので退散。宿や合宿所を見ながら道を引き返す。帰りに神社で雑な初詣を済ませる。コンビニで買い出しをしつつ宿に帰りぼーっとする。宿の床に延長コードが伸びている。延長コードはオタクのへその緒だ。

日が落ちたので車で外食へ。ほうとうや煮込みを食べて大変満足。ほうとう、かなり好きだ。でろでろの麺類が好きなのかもしれない。

これはもつの煮込み

帰ってそのまま星を見に行く。宿から10メートルくらい離れただけで星がよく見える。湖畔の向こう岸を走る車のライトが真っ暗の湖畔に反射している。暗いがゆえに富士山の存在感はすごいものがある。何とか写真に星空を収めようとするがとても無理なので、首が痛いほどに上を見ているしかない。30分は見たか、そろそろ身体が冷え切ったので宿に戻り暑い風呂に浸かる。お風呂サイコー。部屋に戻ってお酒のんだり初見のボードゲームをしたり。明日も早いが日付が変わるくらいまでちゃんと遊んで寝る。

 

某日

起きる。あまり深い眠りにならず布団がべちょべちょになっている。窓の外は寝る前と変わらず真っ暗。いやいや起きて各々防寒装備に身を包む。車を走らせコンビニで朝ご飯を買うと夜が明けてくる。この時間にもコンビニにはちらほら人がいるが彼らが何をするのか我々にはわかる。ワカサギを釣るのだ。

車を駐車場に停めて徒歩で桟橋へ向かう。桟橋には水上タクシーのような平たい船が止まっている。乗り込むと船の中は暖かく、両サイドに一列ずつ座椅子と備え付けの机が並んでいる。座ると目の前に思わせぶりな蓋がありそこを開けるともうすぐ湖面だ。後は簡単。ここに釣り竿を垂らしワカサギが食いつくのを待つだけ。俺はここで釣り糸を垂らすことしかできない。おじさんや外国人などを乗せ船は静かに動き出す。やがて停船したそこが今日のポイントらしい。朝日に照らされて赤く染まる富士山を見ているといきなり船員から激アツチャンスとの報が入る。ワカサギは群れで行動するので釣れるときと釣れないときの差が激しい。釣るなら今!ボタンを押してワカサギを釣れ!とばかりに煽られ慌てて虫を針に刺し釣り糸を垂らす…とものの数秒でヒットの手応えがある。慌ててリールを巻くと二匹かかっている。それから五分ほどはまさにフィーバーで、みるみる目の前のいけすにはワカサギの群れができてしまった。しかし当たらなくなるのも早く、やがてピクリとも釣り竿は動かなくなった。そうすると人間はポットでお味噌汁を飲んだり、チューハイを飲んだりする。このサイクルが最長7時間続く。ここは釣り船であり船上飲み屋でもある。

とはいえそんなに好き勝手してるヒマもない。2時間半程度で我々は釣りを切り上げる。とはいえその間に3回ほどワカサギの群れが来たので結局計100匹ほどのワカサギをゲットできた。船を途中離脱するので迎えの船が横付けされる。そのまま湖を岸に向かってモーターボートが走る。自分たちがいた釣り船は他にも10艘ほど湖にいるのでいろんな宴会が行われているんだろう。

湖上から富士山がとても良く見える

無事地に足をつけ、生臭くなった身体を清めるために温泉へ。富士山付近はぬる湯の温泉らしくのんびり浸かれてとても良かった。風呂上がりの牛乳も美味しい。ほかほかのまま湖に取って返し、昨夜晩ごはんを食べた郷土料理屋へ。こういう店にワカサギを持ち込むと天ぷらにしてくれるのだ。待つこと5分足らずでワカサギ100匹の天ぷらがサーブされる。流石に迫力があるが一匹口にいれると本当に溶けるようになくなってしまうのでサクサク食べられる。異様に美味しい。結局ペロッと食べてしまった。その他定食も平らげ、あとは帰るだけだ。

ワカサギ100匹

車に乗り行きと同じルートで帰路へ。SAで甘いものを食べたり小雨に降られたり都内の道に翻弄されたり都内のLOOPに翻弄されたりしてなんとか車を返却。最後はガストで晩ごはんをいただきおしまい。被労に負けてグリーン車で帰った。

日記(映画を早送りで見る人たち・献血)

某日

『映画を早送りで見る人たち』を読む。たまたま今アニメを倍速で見る人がXでやんや言われているが、倍速視聴の原因がコスパだったとして彼らはここのパフォーマンスを『作品を楽しむこと』としていないということを本書では言っている。倍速視聴におけるパフォーマンスは『コミュニケーションの元ネタを摂取する』ことだ。そうしていろんな元ネタを適切にアウトプットできるキャラクターを彼らは「オタク」と呼ぶんだそうである。ここが大きな差異でそもそも倍速視聴は鑑賞を目的としていない。しかし倍速視聴をする人はコミュニケーションとして鑑賞したことを声高に主張するのでオタクが目くじらを立てている。こういう構図がある。そう思うと結局問題はコミュニケーションを過剰に求めることであり倍速視聴は問題の一部でしかないみたいな感想を本を読んだ結果持った。

某日

年明けから睡眠が足らず電話先が何を言っているのか理解できないまま仕事をして退勤する。髪を切る。髪を切る行為は目的ははっきりしているのにその過程がよくわかんないので一生わからないまま髪を切られている。美容室を変えてみたけどまた次戻すかも知れない。全ては雰囲気。

某日

Kindleのセールで本を12冊買う。積読が増える。

某日

献血する。なんとなく近場で行く献血ルームを少しずつ変えてみている。いつも通りずくずくと血を抜かれる。あんまり現物を見たことないのに血はいつでも生々しい。血を抜かれながら『火蛾』を読み進める。イスラームの知識は世界史の薄い知識(ムワッヒド朝とかアッバース朝とか朝がたくさんある)くらいしかないけれど面白い。