続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

神はサイコロを振り、俺は2羊を受け取る

ボードゲームが盛り上がっている。昨今友人と集まってやることと言ったら手を替え品を替えサイコロを振ることだし、オンライン上でももっぱらサイコロを振っている。賽は投げられっぱなしであるし、神はサイコロを振らないという言葉を見るなら俺(達)は神ではない。

 

ボドゲカフェに行った時も人がたくさんいたし、更にその年齢層は20〜30歳の間に概ね収まっているように見えた。これがボドゲが局所的なブームだという裏付けなのか、ボドゲカフェに来てボドゲをやるなんてのはそんな青二才のすることなんだよという裏付けになっているのかは分からない。共すればボドゲカフェはメジャな相席屋のような使われ方をしているのかもしれない(その場合、求めているのは出会いなのかトークンなのかという問題はある)。

 

このアプリゲームの群雄割拠、戦国時代、激戦区、しのぎを削る、様々な言葉で形容される過激な時代に何故ボードゲームが人を集めているのかは分からないけども、その一端はコミュニケーションにあるのだと思う。その急先鋒が人狼である。もはや一大コンテンツの人狼だけども俺から言わせればあれはゲームとして精彩を欠いていると思う。何故なら俺が勝てないし、上級者が難過ぎるし、何より俺が勝てないからだ。

そも勝負とコミュニケーションを両立させるのはなかなかできた人格者しか出来ない話だし、コミュニケーションを求めるのであればそこをちゃんと作ってあるゲームシステムを求めるべきだと思う(バラエティでよく行われるあれそれとか)。

ボドゲカフェでもこの手のコミュニケーションゲームは数多く行われていた。

 

ボドゲに関する先ほどの一端、という表現のもう一端を言うのなら、それはシンプルにボードゲームだ。勝ち負けがある、ゲームである。

自分は専らこっちの沼にいるしこっちでも勝てないのだけど、こちらをやっている。やる事はシンプルだ。黙って考え、サイコロを振り駒を進めカードを引く。

その動作には空白があり、その空白が大事ではないかと思っている。

つまりボードゲームは楽しい。勝てないけど。