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相互評価による共感の効率化

群像の7月号に宇野常寛の『庭の話』という連載第一回が載っている。面白く読んだのと最近思った話題につながるな~と思ったので少し思い出しつつ書いてみる。


『庭の話』では現代を2つのゲームが存在する時代としている。1つはグローバルにスキルを発揮する人々がプレイする、情勢にコミットするゲームーー資本主義と結びついたゲーム。もう1つはSNSで行われるsomewhereな人々ーーローカルな国民国家の一員ーーが参加しているゲームだ。そのゲームは承認の快楽を交換するための相互評価ゲームである。そのためSNSのタイムラインではもはや内容ではなく、問題が発生した際の潮目だけが読まれ、問題への解決方法や事物そのものへの思考は放棄されている。このことはこのゲームにおいて、新しく問題提起を行うインセンティブがすでにシェアされている支配的な問題に追従するインセンティブより圧倒的に低いことを表している。つまりゲームの目的が相互評価である以上新たな問題提起はされず、この評価獲得の効率化が、以前のゲームプラットフォームである議会制民主主義で第三極が現れず第一極が力を増す理由になっている。
というのが論旨だ。もちろんこれは話の前段であり、ここから話は『庭』という定義に向かっていく。というか連載の第一回なので話はまだまだ途中なのだけど、ここまでの現代の読み直しだけでもこの話は十分に面白い。自分は残念ながら現在グローバル人材ではないので、相互評価のゲームに耽溺している一人である。
その相互評価の話で思い出したツイートがあった。

 


このツイートは内容は特に面白くもなく、『日傘さそう!』というものだ。特筆すべきはその表現方法で、相互評価を得るためのテクニックがたくさん詰まっている。

まず1文目。このツイートがなされた日は猛暑で実際日傘をさそう、とかいう啓蒙ツイートがよく見られた。時流に乗っているという意味で共感度が高い。
そして2文目。『』と1文目の否定を挙げ、それをさらに否定している。ツイートのバズはその内容への共感と反対意見が集まることでなされる。2文目にはこの構造が織り込まれており、いうなれば一人Togetter状態とも言える。起こっていないバズをあたかもあるかのように見せ、1文目(日傘さそう!)の重要さを引き上げているのだ。またこれはAという意見より「Bという人もいるがA」という意見のほうが力強く見え、かつそれをシェアすることで自分も何かを強く肯定しているように思える共感のバグもついている。Twitter有段者だ。
3文目以降は、アカウントが学校関係ということもあり手癖の感もあるが、こういうときに学校とか旧態依然の大きい仮想敵を持ってきて共感ポイントを増やしているのもテクニカルである。
このように相互評価には文章の内容よりもテクニカルな面が大きく影響する場合があり、時々言っている大喜利さ、とか強い言葉、とかはテクニカル面での切り札と言える。
結局SNSでは相互評価しか獲得することができずそれはリアルな社会では換金されない(ことが多い)。少し話は逸れたか、宇野常寛の文はもう少し読んでいきたいと思った。