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同人作家の同人以外の雑記が主です

盛る

盛るというのは編集可能性があるということだ。
例えば今私はくそでか羅生門の下でこの世の終わりかと思うほどの土砂降りが止むのを2万年にわたって待っている。これは盛った文章で、私は現実と異なる(=盛った)表現を、テキストを編集することで作り出した。私はテキストが編集できることを知っていて(=編集可能性)このような名作を汚す蛮行に及んでいる。編集可能性には2つの作用がある。1つはテキストを編集できる技術を持つこと(くそでか羅生門を作ること)、もう1つはテキストを、編集可能なものとみなすことだ。
もう一つ例として写真を挙げてみる。今盛られる代表でもある写真だが私は写真を盛ったことがない。一般的な「盛る」である肌の色を白くするとか眼を大きくするとか猫耳を生やすとかそういうことを一度もやったことがない。そういうことがどんなアプリで行われているのかもわからない。つまり写真に対して編集可能性を見出していない。なので同時に写真を編集可能だと見なしていない。
ここでいう編集可能と見なすとは、対象を技術の集積と見るか否かと関係する。
私は今、テキストは編集可能と見ている(もちろん実際に編集もしている)。私にとってテキストは技術の粋を結集したもので、人の文章を見ると「この言い回しうまいな」とか「ちょっと論を急いでいるな」みたいなことがわかる(わかろうとする意思が働く)。
対照的に、写真は編集可能だとは見ていないのですごく盛られた写真を見ても「はぇー」としか思わない。すごいのかすごくないのかがわからない。なんとなくすごい風には感じるけどそれが具体的な手順には落とし込まれない。せいぜい雑な、背景がゆがむほどの「盛る」に対して「m9(^Д^)プギャー」とコメするくらいだ。
友人に写真加工を生業の一つにしている人がいるがおそらく彼女は写真を見て「この光源…どうやってライティングを…」「ここの修正ちょっと甘いな」とか考えるはずだ。写真を盛ることに長けたギャルも(オタクはすぐギャルに何かを預けてしまう)「この盛り…アーシじゃなきゃ見逃しちゃうね…」とかインスタを見て思っているだろう。
このような編集可能性の作用(技術を持つこと、それが見えること)は少なからず生き方に影響を及ぼす。人はできることに喜びを感じるので、できるものに興味を持つ。編集可能性の広がりは興味の広がりと大きく重なる。興味の広がりは行動の広がりとなりひいては人生の広がりとなっていく(広いことがイコール良いかは考え物だが私の価値観的にはGoodである)。
ここで編集可能性をわかり手という言葉に置き換えるとネガティブイメージが発生する。いっちょかみのにわか知識で物事を語るというような。だがここで問題なのはいっちょかみのにわか知識が問題なのではなく、それを使って物事を語るということが問題なのでありこれは別の問題となる(これは言葉という編集可能性を過信しているという問題でもある)。
そう。編集可能性というものに過信はつきものであり禁物だ。編集可能性から気づくべきはその編集と技術への畏怖であり謙虚さだ。作品を前に「これってこうやってできてんだよ」と技術を開陳するのはドリンクバーを前に原価を語るに等しい。

編集可能性は盛るという行為を可能にするがその前で唯一盛ってはいけないのは自分自身である。

というのを考えてたら今週のお題を逃しました。おわり