続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

自分がダサいと思うものにダサいと言う

ダセェ~と思うことがある。転売とか。無料PCR検査場とか。保釈された漫画村の管理人とかのことだ。これらは総じてダセェし、これらを支持する言葉もダセェと思っている。
※文中の「ダセェ」はニューヨーク屋敷の「ダサ!」みたいな発音

前提として「ダセェ」という言葉を自分は社会規範と切り分けられた個人ベースの貶し言葉だと思っている。ダサいことに理由や対抗策はない。「いや!理論的にこれがダサいわけがない!」なんて反論は成立しえない。イケてないからダサいのだ。ダサいものは俺から見てイケてない、シャバい、しょっぺぇ物事だ。

文頭にダサい例を3つ挙げたが、これらは総じて賛否両論あるものだと思う。転売を「経済学的には正しい」なんて言う人もいる。「倫理的にダメだ」という人もいる。ただ俺は今「ダサい」という念能力では作り得ないほど無敵の刀を手にしているのでこれらを一刀両断できる。「ダサいよ。だからやんない」
現代社会においてファクトフルネス仕草はマナーとされ意見を発する時には両論併記しないといけない習わしになっている。ただ両論を併記したとしてそれがなんだというんだろう?一般人の俺に出来るのはワードサーチの結果よくあるブログのように物事に関するツイートを2,3引用して「いかがでしたか?」と文末に書き添えるくらいだ。市井のSNSから抜き出した言葉を両論分集めてもそれらが同じ論点で交わされた言葉ではない以上併記して得られるものは少ない。先の転売の例で言えば「経済学」「倫理」2つの論点が食い違っており、それらをアウフヘーベンしてもゼルダの伝説BotWで言う焦げた料理が出来るだけだ。傾聴に値する言葉のレシピには到底到達しえない。
だったらもう、自分の感性で物事を言うしかない。その感性が「ダセェ」ということなのだ。これは発言ではなく放言だ。外側に向けた啓蒙ではなく自身の内側に向けた宣誓だ。ダサいと言ってしまった以上それに手を染めてダサい人間にはなりたくないから。
ただ放言してダサいことをやらないからと言って自分はイケているわけではないというのも自覚しなくてはならない。ただダサくないだけだ。自分がイケてると思って他人に啓蒙を始めたら…話が変わってくる。啓蒙にはエビデンスが必要だ。ダサさは啓蒙ではなく自分との宣誓なのであくまで俺ルールである。俺ルールは他人に強制できない。また、俺ルールを俺ルールと自覚せずに他人に言い連ねたりするとそこに理論が必要になり不要な沼にハマっていってしまう可能性がある。自分のルールは自分の。他人のルールは他人のだ。
まぁつまり何かというと冒頭の3つを俺は何かにつけくさすだろうけどあんまり理詰めで殴らないでくれ、ということとでもそういうことが結局自分の思いを形作るんじゃないかとも思うってことだ。