某日
焼き肉を食べる。お祝い。みんなでコースを頼むも高い焼き肉の上質な油により頭が痛くなり二切れ残してしまう。この1切れ俺の昼飯位するだろきっと。
しこたま肉を食べた後の冷麺とアイスと、家に帰って食べたバスクチーズケーキはそれはそれはおいしかったけど肉が前振りになってないかという疑念は消えない。
親からすれば「いっぱい食べな」なのだけどもう我々はいっぱい食べたいよりも「おいしく食べたい」という年齢なのだ。食への基本戦略は既に変わっている。
某日
SNSにいろいろ書くやつは話し相手がいない人だ
というXerpostを見た。おおむねそうだと思う。その技は俺に効く。
しかしこの発言の前提には「SNSのすべての発言は人に向けた/人に見られるものだ」という前提がある。これはソーシャルなネットワークに浸かっている人の発想だ。
ネットには人に言えないことを書くこともある。はじめは皆そうだった。発言が先。コミュニケーションは後。
そういったことをぐだぐだと書いているとき自分は他人を必要としなくなる。他人が必要でないから書くのではなく書くから他人が必要でなくなる。物理的な行動が性格を作ることはままある。
話は飛ぶが創作に陰鬱さは必要ないと俺は思うけど創作の孤独さは陰鬱さとつながりやすい。狭い部屋でコツコツと何かを作っている姿はいかにも陰鬱そうだ。創作の孤独さを守るために陰鬱と思いこむということもある気がする。