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質的な思想、量的な思想

思想には2面性がある。例えば友人の男性がいたとして、その男性を異常独身男性と呼べるかというと俺は呼べない。彼にはその言葉では包括できない様々なファクターがあるからだ。そのファクターは友人レベルの人間でしか認識できない。では逆に、他人の友人である見知らぬ誰かを異常(以下略)と呼ぶことはできるだろうか?できるだろう。
すごく当たり前の話だが、ある種の真理でもあると思う。個人と、その個人の要素を社会的に分析した結果には必ず距離感がある。

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ここでは社会学における「質的研究」が問題になっている。その中で「固有性の世界」「法則性の世界」という対比が出てくる。上の例でいえば様々なファクターを持つ友人が「固有性の世界」でその友人を年齢とか趣味嗜好とかでカテゴライズし束ねて異常独身男性とするものが「法則性の世界」だ。この世界観はエビデンスでつながる(「固有~」を束ねると「法則~」が見えてくる)が、このエビデンスの妥当性を保持するのは難しい(「社会学はどこからきてどこへ行くのか」でもさんざ言われている部分だ)。
このnoteではエビデンスの妥当性を担保する(エビデンスに基づいてどういう意思決定をするかの意思決定をする)基準を「コアエビデンス」と呼んでいるが、このコアエビデンスは企業でなくとも自分でも必要なものだと思う。例えばずっと友人だった人がライフステージを変えたことで子供を養う立場になったとする。その時に接し方を変えるか否かという話がある。インターネットを見れば子供を養っている人はたくさんいてその意見を吸収することで思考をトレースすることは可能だろう。これは友人を「法則性の世界」でとらえる試みだ。でもこの試みをやって友人と接したとしてあんまりうまくいかない気がする。トートロジーですが友人というのは「固有性の世界」の関係性だからだ。
と言っていても特に悩みとかを共有する段階で、友人だとしても「固有性の世界」の話でなく「法則性の世界」の話として聞いてしまいそうになる瞬間がある。その瞬間自分の言葉が薄っぺらく、自分の言葉でない知ったかぶりの言葉で喋らされていると思うのだ。「固有性の世界」である以上、固有な言葉をウェルメイドに話していかねばならない。
また人と知り合って「法則性」→「固有性」という変遷を遂げる例も多い、というか社会に出ると多くのかかわりはこうなる。その中で、二つの世界の間の汽水域のようなかかわりがむやみに増えていくのが『社会人になってからだと本当の友達ってできないよね』的言説の所以だったりするのかもしれない。そしてこの変遷の最たるものがマッチングアプリだ。人を法則性ではじきにはじきスワイプしにスワイプしたどり着いた相手と今度は固有性の対話をスピーディーに行い判断する必要がある。それはもはや人間関係トライアスロンともいうべき競技だ。
まぁどちらの世界を採用するにせよそれは主観にしかすぎない。その採用をコアコンピタンスに則って行うのが人として良いことだろうし、逆引きで自分のコアコンピタンスを発見することにもつながるだろう。