自分はマジで大したことはないということは万人が理解したほうがいい。これは卑下しようというのではなく「頭空っぽの方が夢詰め込める」という理論に基づく。何もないということは何でもできるということなのだ。
最近2つの記事を見た
前者は趣味がないという趣旨の文章だが見事な逆張りが全編にわたって綴られている。この逆張りというのは趣味や流行から距離をとることで自分の存在をアピールするものだが、それによってアピールされるのは「趣味から距離をとっている自分」であり「自分そのもの」ではない。だからこの主張は空虚に見える。「好きななもの」が世間でよいとされるのはそれが自分自身(が感じている価値)の話だからだ。そして自分の価値についての話は自己アピールにおいての掛け金が高い。
ここで上げられるディスタンクシオンにおけるハビトゥス的な話は面白い(お前100分de名著見直せ)
で、後者のホラーの話は記事自体は面白かった。自分もホラーのこういう部分は好きだし挙げられている作品もはずれがなさそうだったので呪詛見てみたい。ただコメントは「notformeだろ」とか「啓蒙すんなや」とか記事に厳しいコメントが並ぶ。
このnotformeという言葉に対して、俺は少し忌避感を覚えている。それは冒頭に書いた「自分は大したことがない」という考えによるものだ。
notformeというのはme=自分を理解していないと出てこない言葉だ。しかしこの言葉は自分というものの不可侵性を盾にしている言葉なので論戦において強力な守備力を発揮する。インターネットビッグシールドガードナーだ。だがガードナーが自分を理解していない場合、「notforme」という言葉は意固地にわからないものを退ける方便に成り下がる。そしてそれはよくない。「頭空っぽなのに夢詰め込まない」ことになるからだ。
人間にとって自分というのは一言で言い表せるものではなく、必ず自身からはみ出るものだ。だから簡単に言えば啓蒙はされた方がいいしよくわからんものはやってみたほうがいい。これを「生存者バイアスだ」というのは簡単だけど、正直「ホラー苦手な人でもホラー見てみなよ」という記事に「啓蒙するなよnotformeかもだろ」ということは…意味がある行為なのか?と疑問に思う。ここでまたバイアスという便利な言葉を使ったがバイアスはあることが問題なのではなくあることを理解したうえでどうするかという部分が問題なのだ。分断とか性差とかもすべてそうです。
で、とにかくやっぱり、自分は空っぽなんだという意識は持っておいた方がいいと今思っている。これは多少大人になったからでもっと小さいときはこの空っぽさに焦っていただろう。他の人は満ち足りているように見えるのに自分だけがカラっけつで前に進めないみたいな感覚。正直今もこう思うときがある。何ならこう思っているときの方が多いかもしれない。でもその焦りがいいものを生んだことはあまりなくて、自分は「自分は空っぽだからその辺にある石でも拾って入れてみるか」みたいな考えの方が向いているのだ。なんかそういう石も光に透かせばきれいかもしれないじゃんみたいな。結局抽象的な話になったな。