世は大考察時代だ。これにはいくつかの理由がある。すべてが不確定な現代社会で個人の価値観が美徳とされることで「価値観を持つ」規範が生まれ、その規範に従うために物事を深く考える必要があるためだ、とか。またはファクトフルネス仕草が良いとされて物事に言及する際にその裏にあるファクトを用意することが要請されるからだ。物事は「お気持ち」ではなく理由とか真実とかがあって起こるべきだ、という願いが今日も考察を生み出しているから、とか。一昔前のオタクにおける知識偏重主義が考察というある種の創造に結びついていっているのかもしれない。
大考察時代において人は作品を文脈の絡まりととらえその絡まりを知識とか過去作とかそういう道具で解きほぐし一本のストーリーライン(ログラインというと玄人っぽい)に整えてそれをでかいフォントで説明する。それを見て我々は感心し作品を改めて腑に落とす快感を得る。
まぁこれは「君たちはどう生きるか」に関する思いだ。ジブリ10年ぶりの完全新作なんて考察するなという方が無理だし公開前の情報飢餓からか、すでに巷は絞殺とその裏付けであふれている。なんですぐ駿のインタビュー証言が出てくるんですか?
ただこういった考察が氾濫する中で「考察疲れ」(こういう、流行っている言葉に「疲れ」を足すことで自分が流行に対して先を行っていると感じさせるテクニックはよくある)を感じている人もいるのかもしれない。考えるな感じろ的な、あるがままの感覚というのを大事にすれば考察なんてしなくても作品が語りかけてくれる、いやいやその語りすらも知識がなければ聞き取れない…話はトートロジーに陥ってしまう。結局ありかなしかなんて人によるのだ。
ただこういうツイートが俺は好きだ。
なぜ絵を描くのですか?には「あれを観てしまったから」としか言いようがない。なぜ音楽を?でも、なぜ文学を?でも同然である。「聴いてしまったから」であり「読んでしまったから」である。これを贈与/受贈とすると、作品制作は返礼/祓いになる。それは誰も受けとらなくても、呼吸として成り立つ。
— 中島 智 (@nakashima001) 2023年2月16日
この『~てしまった』性はとてもよくわかる。不慮の事故によって語らなければ、作らなければならなくなってしまった人は周囲を見れば枚挙にいとまがない。自分だってそうだ。そして不慮というように、この原体験に理由はないしよって考察は存在しない。作家のインタビューなんかでは原体験は?と問われ色々あるけどたまたま手に取ったあれがさ、なんて話が散見される。そういう意味で「物事の原体験は不慮の事故であってほしい」という思いがみんなどこかにあるのかもしれない。子供のころから全部計画的に自発的にすべてを吸収して名作を生み出す人ってちょっと嫌じゃん。特に芸術では。スポーツはその点大谷翔平は自覚的にトップを目指しているように見えるが…。そう思うとアイドルの「友達が応募して」も不慮の事故性かもしれない。市井に生きる原石が「たまたま」見つかって光っていく…そういう物語は求められがちなのかもしれない。
話がそれた。考察の話である。一つ芸術において考察を必要としない願いというのがあるのかもという話をした。さらに言えばこういうものが理不尽なものを要請しホラーがちょい流行りしていることに結びつくのかもしれない。その話は今はいい。
で、もう一つ。創作する人しない人という軸を持ってこの話を見てみたい。申し訳ないが自分は捜索する側なので前者の肩を持ちがちです。
で、創作する人はだれしも自分の原体験を持っている。不慮の事故で、否応なく、作らなければならなくなっている。そういう人たちは私見だが表現に弱い。「やりたいことをやっている」ことに対して甘々の評価をつけがちだ。なぜならそこに他人の原体験が見え隠れするから。創作者は原体験という傷を側頭部に、ひざに、すねに持っている集まりでありその一点で分かり合う節がある。文字通り傷をなめあってしまう。
そういう点で「君たちはどう生きるか」はぺろぺろ要素が多い(ひどい言葉。SNS風に言えば「癖」だ)。とにかくそういうエネルギーがあの映画にはあり何なら原体験というものが作中にそのまま出てくる。突如飛来した塔。宙に浮かぶ積層した異形の塊。そしてその原体験は考察をはねのける。原体験はそのものでありそれ以上でも以下でもない。アルファでありオメガなのだ。
しかし創作しない人、言えば原体験を持たない/忘れた人、はそこに理由を求めてしまうのかもしれない。そうしないと理解ができないし理解とはそういうものだから。それは好意的な営みなのだけど作家に対してのそれはどこかで原体験という巨大な岩に阻まれてしまう(もちろん原体験を特定するというのはその作家への大きな愛に他ならない)。その考察が中途半端だと変なところで満足感を得てしまうこともあるだろう。それはそれでもったいないと思う。毒も食らわば皿までである。
何が言いたいかというと創作する人は考察について甘いところがあるってことだ。それは考察が無用な境地(原体験)を心のどこかに持っているからだ。
それは考察の意味を否定しない。ただ、考察に疲れちゃってェ…という人はその考察をしたい作品に食らった感情を創作に回すというのも一興ではないか。それも生き方じゃないですか。