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君たちはどう生きるかのとりとめがないネタバレ感想

君たちはどう生きるか』を突如思い立って見た。

レイトショーで埋まり具合はぼちぼち。ネタバレ無しで感想を書くと面白かったし俺は好きでした。

 

以下ネタバレあり感想

◯ファンタジーであること

ジブリの公称では『君生き』は「ファンタジー活劇」であるらしい。本編を見てもそう思った。そしてそれはとてもいいことだ。この時代においてファンタジーを2時間もたっぷり見ることはないし、ファンタジーはたいてい荒唐無稽だ。本編においても最初は地に足付いた話だったのが、アニメーション力によりその世界観はぶち壊され(鳥が喋るし)「お待ちしておりました」なんて言うセリフとともに物語は別の世界へと展開していく。その世界には創造主がいて、謎の生き物たちが生態系をなし、ヒトが生まれ、世界のバランスは崩れ去ろうとしている。そういうファンタジーの中主人公は「夏子を取り戻す」という一つの信念だけで(後半この信念は変わるけど)進んでいく。インターネットぽい言い方をすれば「ジブリの新作を見に行ったらジブリの新作だった」ということだ。これは素晴らしいことです。これだけでこの映画は価値がある。

◯ファンタジーの濃度が濃い

『君生き』は意味がわからない。ストーリーのあらすじはわかるけど場面一つ一つの意味は本当に謎で理由も説明もない。真人はそこを掘り下げずに「夏子さんを知りませんか」と自分の目的ばかり問うし、別世界に生きる者たちは「主が来る」とか「終わり波だ」「石が怒っている」とか言って世界が当たり前にありその理由を問わない、別世界の人間の言動しかしない。でもファンタジーってそういうもので意味はないのだ。それが現世の生き写しだとか理想だとかってのは現世側の視点であり物語内のキャラはそんなことは気にしない。『君生き』のセリフはファンタジーの濃度を高める役割を過分に果たしている。そうして謎が謎を呼び情報に翻弄される快感を今感じられるのはとってもいいことだ。良かったですね。

ジブリすぎる

日本人の中にジブリ観は染み付いている。ある風景を見て「ジブリっぽい」なんて感想が出てくるほどにジブリっぽさはどこか共通認識を持つ。そんな我々が今ジブリの新作を見ると「ジブリすぎる」と思ってしまう。それほど『君生き』はジブリだ。これは魔法モチーフのものをすべてハリポタで例えるくらい仕方ないことなのだけど、やはりすごい。ジブリオタクであればあるほど『君生き』の中にジブリ本歌取り要素(ハウルっぽさ、たちぬっぽさ)を見てしまうかもしれないがそれは宮崎駿というクリエイターの一面を我々が既知のものと認識しているからだ。そう思うと駿、すごいな…。そしてそんな要素だけでなくきっちり駿は観客の上を行く画面を見せてくれる。ありがたい限り。

◯ほんの半ばだよ

終盤のこのセリフを風立ちぬの「人生の最も創造的な10年」という言葉に重ねた人は多いかもしれない。終盤の異質な塊は、クリエイターの目線で見ると創造の源泉だしこのシーンを宮崎駿のやめるやめる詐欺の末に生まれた作品自体と結び付けないほうが難しい(と思う)。こんな作品を作ってもまだ道半ばなんですか。

◯真人と父は似ている

父は子供から見て大人臭い立ち位置にあり、それを眞人はグロテスクだと感じている。しかしその大人臭さは金という力を手にしたゆえであり、身一つの父は子供がいなくなったら木刀と蝋燭をひっつかんで駆けていくある種純粋な力を持っている。それは青鷺を打ち倒そうとする眞人にも受け継がれている。血は争えないし、その父が終盤ちょっとコミカルにすらなっていくさまはいい

◯ひみ

ヒロインと母を重ねてジブリティーン感を親子愛にすり替えるのずるくないですか

◯アニメ力(ちから)

Twitterでも画面の力ひいいてはアニメーションがすごいという感想をよく見た。最初の空襲のシーンはもとよりだし、とかく画面が説明に満ちている。夏子に最初に出会った真人が、お腹の子供を触らせられるシーンなんて殴る蹴るよりも強い凌辱だし(というかあそこの重心移動の動きエグすぎ)、特におばあちゃんズが最初に現れるシーン。不自然に伸びた廊下が視線を狭める中心でなんだか謎のものがウゴウゴうごめいているあの感じは、慣れていない環境で見慣れているはずのもの(人間)が全く別の生き物に見える心情をアニメで表していてすごかった。

歩くシーンの場面転換も最後の最後までカメラがFIXしているし帆船が風を捉えた瞬間のアニメーションも胸がすくように力強い。コンテをそのままレイアウトに落とし込んだような場面を、リアルなアニメーションが支えているすごい映像だと感じた。

◯世界

最終盤で眞人はお館様から世界の創造を託され「僕には悪意があるので」と断る。俺はあそこを創造への畏怖と信頼が見事に描かれているシーンだと感じた。世界には悪意があるけれど悪意を持って世界を作るというのはやっぱり無理なのだ。その世界は作品かもしれないし関係かもしれないけど悪意を前提とはしていない。しかし悪意を自分が持っていると自覚している人が、その悪意を払えるのもまた真実なのだ。

◯おわり

物語は最後「戦争から二年後、東京へ戻る時が来た」というモノローグで唐突に終わる。これはクールだ。物語はその前の青鷺の言葉「これは強力なお守りだ。持っていれば少しは忘れないだろう。あばよ友達」という言葉で、すでに自身の幕を閉じている。物語の外のことは物語は語れない。リアルはリアルなだけなので。あとは物語を見た君達が語るしかないのだ。