続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

FRENZ2019お疲れさまでした(作品制作編)

作品の解説をします。

壇上で話したこと含め、制作の流れとかを。なぜなら俺が書くことで他のみんなが描いてくれるかも知れないから…

まず作品はこちら↓

www.nicovideo.jp

 

○制作のきっかけ

やるかーやるしかないかー

○作品コンセプト

まずSFという題材ありきで考えていました。

なぜSFか。それはSFにどんハマりしたからです。飛浩隆は最高。

まぁSFと一言に言っても様々あるので、影響を受けたものをいくつか挙げます(ここに特に確固たる信念があがらないのが二次創作者たる所以)

・音楽

IDOLM@STER「Miracle Night」「99Night」

いきなりアイマス。しかしこの2曲は出色の出来なんだよな…「夢じゃない!夢じゃないんだ!」「なんてスターライト 浮かぶハイライト」素敵!TakuInoueは神。特に「はりぼてみたいな宇宙船だけど どこまでもきっと連れて行くよ」という歌詞は話の原型になっています。言うほどハリボテっぽくならなかったが…。というかタイトルのSTARLINEも「黎明スターライン」から来てるし実質これはもうアイマスの二次創作。

・映像

ラブ・デス・ロボット

Netflixのロボットが出てくる短編集である。元々はスパイダーバースのスタッフが参加しているということで見たのだけど、それ以外の短編のクオリティも軒並み高かった。この中にSTARLINEと同じネタのものがあるが、これは偶然です(と言うよりロボものの王道と言えるので)

・その他

インポッシブル・アーキテクチャ

建築についての展覧会だが、全く作中で出て来ない惑星の設定について非常に参考にしている。セリフに出てくる「地殻フレームから給電中」みたいなセリフの元ネタとかになっています。

firstlot13.hatenablog.com

 

あと話のキモとして最初に「ヘリ(ドローン)に後ろから迫られるシーン」「メカ娘が破壊されているシーン」を設定して話を練っていきます。

 

○迷走

作り方がランダムに材料を用意してから練っていく方法なので、出力が異なるモノがバンバン出てきて迷走を重ねました(これが2月〜5月くらい)。メカと人間ネタなんて無限に組み合わせがあるので。例を挙げると『メカメイドと旧家のおぼっちゃまの主従成長モノ』『生まれつき翼が生えているが故に幽閉されている女の子を救いに行く幼馴染の男/女の子』『棄てられた空中都市を一本繋ぐレールを走る電車モノ』などなんだかヘンテコな話ばかり出てきてそれぞれが画力が足りなかったり元ネタが出過ぎていたりとボツになり、残ったのが『牢獄となった惑星から逃れる女囚人』の話でした。ここからは尺を詰める段階になり、元々囚人が他にも出てきてたのがボツ、そもそも生まれながらの囚人だった設定がボツと主に回想シーンをボツりまくりようやく五分に収まりそうになったのが最終バージョンでした。ここで6月です。最終バージョンが出たくらいでとりあえずFRENZに申し込みました。そしてこのへんで「褐色」「水色の髪」というキャラデザが降ってきました。ここで勝ちを確信した(勝ったとは言っていない)。

 

○作業

WORKINGエリアに入っていきます。まず個人制作なのでコンテを切らず好きなところから描き散らかします。そして全部没になりました。

なぜなら5分に収まらない!今回抽選になるのは見えてたので規約だけは守ろうと必死に時間を削りました。そして元々考えていたカブラギが穴に落ち、ロケットを発見するシーン、「よろしく!」からロケットが出来るまでの間のロケットをつくる回想シーンを削り、大体3シーンで全体がまとまりました。やったね。ここで1次提出です。許してくれ。

本当に制作については工夫も何もなくひたすら描くだけでした。aviutlのカスタムオブジェクトでかんたんに星空が動かせたのが便利でした。あとNASAのフリー素材アーカイブ超楽しい。ロケットの写真いっぱいある。

○終わり

ここは壇上でも言いましたが最後あおPに泣きついて音楽つけてもらってレンダリングしてもらって俺がD&Dでデータを提出しめでたくおひらきになりました。これで完成データがあおPの元にあることになり修正期間は無でした。

 

○当日

二日目の夜だったのですが一日目から割と緊張していて、特に二日目の開場前は一人バーガーキングで震えていました。

今回は一部と言う割と早い時間に流れたので、割と壇上でも落ち着いて話せていた気がします。どんぼこさんが気に入ってくれていたようでありがたかったです。あと地生さんが作品の無音状態をちゃんと把握していることにビビってしまった。前田地生許してくれ…。

あとは会場で声をかけてくれた方や声をかけて答えてくれた方々に感謝するのみです。いやほんと、動画のイベント一切顔を出さない人間なのでここでしか皆さんにお会いすることがなくそんな人間のこと忘れて当然だよな!と思うのにみんなとてもあったけぇ…うゆゆゆゆ…。キャラかわいいって感想が多くてよかったです。全く続きは未定だけど、なんかスターシステム的に使いやすい奴らではあるのでバッカーノ世界におけるアイザックとミリアのような使い方ができればな―と思っています(スターシステム好きなのでLOVEFRAMEにも過去作の人間出してる)。

毎年ここで思うのが会場の物語リテラシーの高さで、今回は特にシーンをボツりまくったので全てが伝わるか心配だったのにきちんと意味を汲み取ってくれていてとてもありがたいです。もっと練り込めるよう頑張ります。

特に「帰ってくるところが最高」そうそれ。帰ってこないと。「吹き出しが身体より前にぶっ壊れているのでまずそう叫んだってことですか」まさにそう。などの分かり手には舌を巻きました。

○ざっくりお話解説

かつてライフフレーム(立方体のフレームをつなぎ合わせ、その中に電気などのライフラインを通したもの。テラフォーミングの区画単位に使われ都市開発の基盤をなす)を使用したテラフォーミングに失敗し不毛の土地と化した惑星ルーニン。カタリーナ・カブラギは違法ハッカーとして異星間企業の情報流出の一端を担ったことで指名手配され逮捕。寿命を超える実質終身刑を告げられルーニンにやってきた。

そこでニータと名乗る女性とAT-Ⅱと名付けられたロボットと出会う。彼女らは地中のフレームを巧みに使いルーニンを脱出するロケットを作成していた。カブラギはそこに合流し、二人と一体でロケットを作り上げていく。

ロケットは完成し、彼女らがそこに乗り込もうとした時、監視用ドローンが一行を捉えた。ルーニンの極に埋め込まれた無人監視棟がロケットのエネルギー用に地殻フレームから充填されていた電気の流れを察知し差し向けたものだった。

なんやかんやで(ここは映像を見てくれ)ドローンを撃退したかに思われた彼女らだったが最後放たれたミサイルがニータを貫き、爆発する。そうしてロケットはAT-Ⅱとカブラギを載せたまま打ち上げられた。

ロケットで失意のカブラギ。その前に現れたのはモニターの中にいるニータだった。実はニータはAT-Ⅱ内に実装されたプログラム(AI)であり、カブラギが人間として接していたのはAT-ⅡがプログラムAI『ニータ』で動かしていた生体ディスプレイ型アンドロイドだったのだ。『ニータ』はルーニンで破壊されたがバックアップはAT-Ⅱの中で生きていた。

そうして一人と一体は宇宙へ飛び出していく…(完)

 

○感謝

今回の話は無論あおP氏の尽力がなければ無音状態で公開されていたことは事実なのでまず感謝を。そして呪詛を通話で受け止めてくれた友人共。実家の犬。ありがとう。また通話に顔は出さなかったけど同じ時間軸で作業していたFRENZ地獄ディスコードの皆さん。作品作りは無限の荒野を一人歩き続けるに等しいので、そこで姿は見えないけれどもたしかに同方向に歩き続ける同胞がいる!というのを感じさせてくれました。そのおかげで無事完成にこぎつけたと言っても過言ではない。またこの一年LPO以外で邂逅した動画製作者の皆さん。なぜかflash勢が多いけどこれも何かの縁です。また願わくば新作を見せ合い時には酒を飲んでいきましょう。また前作今作を会場で見てあまつさえ感想を言ってくれた皆さん。見てくれただけでも感謝感激なのに感想を言ってくれるとはいたれりつくせりです。みなさんに幸あれ。正しい行動を取る皆さんに祝福を!そして主催はじめFRENZスタッフの皆さん。みなさんのおかげでFRENZは形をなしています。またLPOで大いに泣き笑い拳を突き上げる瞬間を感じていきたい!Thanks for your frenzy!

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FRENZ2019お疲れさまでした(イベント感想編) #FRENZ_JP

と、いうわけで9/14,15に行われたFRENZ2019、二日目夜の部に出展しておりました。参加者並びに運営の方々はたまた観客の皆々様方本当にお疲れ様でした。

作品の話はおいておいて、まず一般全通参加者として感想をば。

今回はFRENZ10周年ということも関係していたのか、とにかく「エモい」作品が多かったと感じた。それは作品の要素としてのエモさ(音楽、映像、ストーリーラインの良さ)と出展者のエモさ(経緯、出展意図などの想い)の両方が含まれる。あまり普段エモいって言葉は使わないのだけど、処理しきれない巨大な感情はこう表現するしかなく、FRENZというイベントで出される作品、出てくる出展者というのはえてして巨大なので仕方がない(巨大なものの例:15年以上連綿と続く映像制作の系譜、誰も幸せにならない女二人の思いの交錯、地球に飛来する虹色の主催)

今回も100作品ほどの映像を2日間で見たわけだけども、いちおう全作品に感想をつぶやいた。おそらく出展者の名前と#FRENZ_JPで検索してもらえれば出てくると思う。これは普段映像をそこまで見ない(失礼な話だ)自分がイベントにできるせめてもの貢献だし、何より感想はとても嬉しいからである。嬉しいことはいいものだ。だから俺に対しても嬉しくしてほしい。

 

なので少し全体的な感想を

・映像のアップデート

去年と言葉を変えて同じ事を言っているけど、最早2Dと3D、フィクションと実写相反する表現を使って更に自分を高めようという表現が多かった。映像という広大な枠の中でどこまで出来るのか、枠自体を拡張できないかと果敢に挑むクリエイターの飽くなき探究心が今年も存分に発揮されていたと思う。去年の作風から一気に流れを変えてきたり初の出展者

がいきなりぶちかましてきたり名義を変えた出展者がぶちかましてきたりさながら映像パンクラチオンだった。

 

・映像の意味

このイベントの醍醐味は出展者の2分の登壇だ。最近「作品を楽しむには作者を深く知る必要はない」なんて言説がTLに流れていたがそんな事はない。何故なら我々はオタクだからだ。ものすごくヤバいオタクだ。オタクは文脈を愛する。歴史を重んじる。つまりクリエイターの登壇なんてのは大好物なのである。そしてそこで語られる映像への愛。創意工夫の妙が今年はより強く感じられた(司会が長年の映像制作経験者だった事もこの理由の一つだと思う)。

俺は感受性が無いので映像を割と額面通りに受け取ってしまうがその奥に隠れた意味は制作者を飛び出し、他の出展者に絡みつきFRENZを支えている(FRENZ10周年に意味を引っ掛けるなんて粋な映像が沢山あるのだ)。

ちょくちょく「FRENZ初めて来た人?」という問いが主催より投げかけられていたが10年の月日がその問いを発せさせたのかなとも思ったし、この問いに応える人が一定数いるからこその10周年なのだろう……と感じた。

閑話休題。意味の話か。

そんな意味のこもった作品を見られる場がいつも以上にアツかったと感じた。

 

・ドット絵多くない?

多いのに全部違うドット絵の力をフル活用してて、とてもすごくない?めちゃ最高

 

・音響をみんな信頼している

いつもより低音にみんな振ってない?音楽疎いからよくわかんないけど。でもライブの醍醐味だし最高

 

・み~~んなす~~~~っごい

すげ~~~~~!!!なんかみんな!すごい映像に対して真摯だし真面目!想いが全てに詰まっている。かっこいい作品の人は本当にクールな映像がグリグリしてるし、可愛い作品は毎カットかわいい。かわいいは演出なので全てがそこに向かっている。オモシロ作品の人たちみんな「滑り散らかすかと思った」とか言ってるけどそんなわけないじゃん自分で考えたギャグでリアルタイムであの場がウケないわけないギャグはガンガンやっていくべき。音楽!最高だぜ。俺には詳しいことはわからねぇがあの場で聞く音楽はもはや耳でなく身体で聴いているんだ。身体で聴く音楽は最高。あと手法で攻めるのもずるい。どんだけ人間は発想が無限なんだ。映像は何をやってもいいんだ。何をやってもいいから作ってもいいんだ。ありがとう前田地生。ありがとうスタッフさん。ありがとう全出展者。ありがとう観客席のみなさん。ありがとうLPO……

・温玉うどんはおいしい

これは本当。

 

というところで、作品の話も後でまとめて書こうと思います

とりあえずFRENZ2019お疲れ様でした。いつも以上に楽しかった。いつもは映像をまともに見ない人間なので毎年「俺はここにいていいのか……」と思っていますが、毎年FRENZで映像を見て最高になっているので「俺は映像が好きなのだ」と思えているのです。だから少しはいてもいいかな!とも思っている。

 

それでは。

 

 

3400円でワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを見た

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを見た。しかもグランドサンシャインのめちゃデカIMAXでである。そしてプレミアムシートでだ。1500円追加で結局3400円で映画を見たことになる。

もしこれからめちゃデカIMAXに行く人がいたら、とにかく上の席を取れと言える。下はだめだ。もしおでこに目があって縦の視野角が広いならいいけど。というかベスポジでも草食動物の視野角がスクリーンを見切るには必要なので、諦めてほしい。

そして話はプレミアムシートだが、ここはフカフカで勝つリクライニングが可能なシートだ。正直良かった。思いっきりリクライニングしないとまともに画面が見きれない。今回3時間映画見て疲れなかったし。値段と釣り合うかはわからないが、こだわりの映画を見たくてかつ興味があるなら試してもいいと思う。

 

(この下にはワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのネタバレが含まれています。視聴済みの人向けです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは救いの映画だった。

映画の中でヒトラーを焼き殺したタランティーノなので、史実であるシャロンテート事件をどう扱うか、というのはキモだったと思う。結果としてシャロン・テートは生き残った。ヒッピーによる凄惨な事件は起きず、(かなりエグい)返り討ちにあったのだった。

そして映画のもう一つのキモはディカプリオとブラピ演じる架空の人物である。落ち目の俳優リック・ダルトンとそのスタントマンクリフ・ブース。その非実在のキャラクタは映画を象徴している。映画(ワンス〜の劇中劇)の中でダルトンはかつての栄光のため、そして今の栄光の影として「悪役」としての役割を求められそれを果たすばかりだった。それを悩み酒を飲み、演技に支障をきたし、恥をかく。そんな負のスパイラルを断ち切るきっかけになったのが幼い女の子というのが良い。こまっしゃくれたと言ってしまえばそれまでなのだけど(彼女に言わせれば)俳優という職業の中でその思想は真っ当であるし、真っ当だからこそダルトンは同業者のものとしてその言葉を受け止め、酒を(少し飲んでから)棄て、最高の演技を見せた。それを彼女は正当に評価する。経験とかしがらみとかのないクリーンで対等な関係がそこに生まれていたのだ。尊い

 

シャロンはどうだろう。彼女は若く、自分の可能性を信じているように思う。彼女が自分の出演する映画を観に映画館に入るシークエンスはとても良かった。ネットに渦巻く自己肯定感とかそんな言葉を吹き飛ばすような、自分を知っているか係員に聞く表情である。知られている喜びは「私のファン?」なんてことは言わせない。あそこで撮られた写真のことをシャロンは一生覚えているのかも……。そして自分の出演シーンで観客が笑い驚く様を見る彼女は一挙手一投足がチャーミングだ。正直主演でもなく、なんか雑なお色気要員として出ている気がしなくもないが、それでも彼女は仕事でその役をやりきり、人を笑わせている。その矜持を強く感じたシーンだった。新人のシャロンとそれが一周したダルトンそれぞれが違う方法で同じことを思っているのだ。

 

クリフはどうだろうか。いまやすっかりダルトンのお手伝いとして仕事をしておりスタントマンとしてはあまり活動していない。キャスティングを決めるおえらいさんにも好かれず悪い噂が先行している(この噂の真偽は不明だが挿入されるシーンを見るに同情の余地はあるようだ)。そんな彼はダルトンの「友達以上、妻未満」としての役割を任せられている。すっかり落ちぶれたダルトン内助の功で支え、友人として、同業者として褒め(FBIを見るシーンの楽しさ!)、家に帰ればトレーラーハウスで犬と暮らしている。彼の矜持は最後、ヒッピーを殴り殺しダルトンとの関係を永遠にかわりないことにすること(もちろん別れの晩に泥酔することでも彼らは変わらなかったかも知れない。今後酒の席で話せるネタが増えるだけかも知れない)だった。

 

最後、ダルトンは冗談で言っていたポランスキー夫妻のパーティーに本当に招かれることになる。これが彼の、フランスから始まる華々しい復活劇の火口になるかはわからない。でもきっとそれはそうなんだろうし、だからこのタイトルは「昔々、ハリウッドで…」なのだ。

 

このように話はとても好みだったし、ヒッピーの娘はエロかったし、悪役は広がって歩くし、何より街がかっこよかった。これはタランティーノのこだわりだろう。あの猥雑な感じ、最高である。ダラダラ酒を飲みたくなる映画だった。

 

 

街の機微に気づかず

ひさびさに帰りの電車でよく寝た。家に人がいなかったので、外食の気分になり最寄りの駅周りを自転車で乗り回してみた。

 

なにを食べようか思案しながら夜の街を走ると、気づかなかった変化に気づく。古本屋は串揚げ屋になり、中華屋は唐揚げ屋になり、パン屋はタピオカ屋になっていた。

長く住んでいる街にはぽこじゃか家が出来て随分と様相が変わったななんて思っていたけれど、その変化を正確には把握できていなかったらしい。本当に様変わりをしているのだ。

結果ラーメンを食べて帰っていると、通りがかった公園で夏祭りをやっていた。地域の名前を織り込んだ音頭をヤグラで踊る人々の影は唯一覚えている記憶と一致するものだった。

しかし、その祭りにも屋台がほぼなく、自治体が飲み物を売っているのみになっていた。テキ屋が摘発されたのが響いているのだろうか。

時代に取り残されないように自転車を踏む足に力を込め、帰った。

日記を読みたい

日記が好きだ。人の何でもないブログを読むのが好きだ。

そう言って自分はそんな感じの文章を細切れにしてTwitterに投げつけている。いや最近はそれすらもなく、「あれあの時何してたっけ」とTwitterを遡っても「つらみ」みたいな呟きしか残っておらずライフログとしてのSNSの脆弱さを感じている。

 

この日常というのは本当に「商店街で買ったさつま揚げ美味しすぎた」みたいな事だ。Twitterでこんな文章を見ると嬉しくなる。最近だと「ウクレレを買って毎日練習をしています」という呟きは良かった(もし書き手がこのブログを見ていたら勝手に書いて申し訳ない)。フォロワーがウクレレを買って練習しているのだ。こんな良いことばかりであってほしい。

 

これらの何の意味も文としては持たない仕草、行動が好きなのはそれが人の心を打てると知っているからだ。ネット社会はとかく文章が上手い人が多いので、書いていることに意味を見出しがちだけどそんな解釈がなくても良いものは良いのだ。人は人に心を打たれるし、逆に人の心を打つことができる。

 

と、唐突に思ったのは「誰もが発信者になれる」時代なんて呼ばれて久しいなと思ったからだ。その結果は見ての通り、「誰もが発信者になれるわけではなかった」というのが分かった時代だった。

発信というのは口を開けて言葉を発音することではなく、発信するに足る下地があっての事だなんてのは石を掘って言葉を残した時代には当たり前だったのだろうけど今や親指一つで文字が打てる時代、発信欲は発信という行為に追い越されている。何かあれば、何もなくても意味のある言葉が渦巻き、様々な思いを湛えた大海を巻き上げ膨張し全く関係のない場所に豪雨のような思いを降らせ消えていく。

SNSには意味が溢れ過ぎている。意味の自家中毒だ。意味を持たせれば別の意味に突っ込まれ、無意味と言われる。意味疲れ。意味の飽和。

 

意味はもう良いのだ。事件が起こって、それに対する色んな意味が錯綜している。もうたくさんだ。事実が大き過ぎてそれを切り分けるには大きな意味が必要で、それはコモンセンスの何かだったり大義だったりする。そんなデカい刃物は一般人では降りかざせない。ソーのハンマーが重すぎるのと同じだ。大義を振りかざしましてや人を事象を斬るには大変なトレーニングが必要だ。そのトレーニングを積んでいない場合、それは大義を発信するに己が足りてないということなのだ。知が足りない。思慮が足りない。視野が足りない。全てだ。巨人の肩にすら乗れていない。

 

意味を持った言葉を発するのは怖いことなのだ。と思う。誹謗中傷だけでなく、全ての言葉がそうなのだ。

だからではないけれど、小市民な自分は行動をするしかない。他人には意味がない人生を重ねていくしかない。もしくは大義を掲げるトレーニングを積むのが良い。どの巨人に乗ろうかなと探すことから始めるしかない。それも意味のない人生のワンシーンだ。

だから、他人に意味のない、自分に意味のある、人生が綴られた日記が好きだ。自分はそれに動かされるかもしれないから。

 

 

神はサイコロを振り、俺は2羊を受け取る

ボードゲームが盛り上がっている。昨今友人と集まってやることと言ったら手を替え品を替えサイコロを振ることだし、オンライン上でももっぱらサイコロを振っている。賽は投げられっぱなしであるし、神はサイコロを振らないという言葉を見るなら俺(達)は神ではない。

 

ボドゲカフェに行った時も人がたくさんいたし、更にその年齢層は20〜30歳の間に概ね収まっているように見えた。これがボドゲが局所的なブームだという裏付けなのか、ボドゲカフェに来てボドゲをやるなんてのはそんな青二才のすることなんだよという裏付けになっているのかは分からない。共すればボドゲカフェはメジャな相席屋のような使われ方をしているのかもしれない(その場合、求めているのは出会いなのかトークンなのかという問題はある)。

 

このアプリゲームの群雄割拠、戦国時代、激戦区、しのぎを削る、様々な言葉で形容される過激な時代に何故ボードゲームが人を集めているのかは分からないけども、その一端はコミュニケーションにあるのだと思う。その急先鋒が人狼である。もはや一大コンテンツの人狼だけども俺から言わせればあれはゲームとして精彩を欠いていると思う。何故なら俺が勝てないし、上級者が難過ぎるし、何より俺が勝てないからだ。

そも勝負とコミュニケーションを両立させるのはなかなかできた人格者しか出来ない話だし、コミュニケーションを求めるのであればそこをちゃんと作ってあるゲームシステムを求めるべきだと思う(バラエティでよく行われるあれそれとか)。

ボドゲカフェでもこの手のコミュニケーションゲームは数多く行われていた。

 

ボドゲに関する先ほどの一端、という表現のもう一端を言うのなら、それはシンプルにボードゲームだ。勝ち負けがある、ゲームである。

自分は専らこっちの沼にいるしこっちでも勝てないのだけど、こちらをやっている。やる事はシンプルだ。黙って考え、サイコロを振り駒を進めカードを引く。

その動作には空白があり、その空白が大事ではないかと思っている。

つまりボードゲームは楽しい。勝てないけど。

名前を変えた

一番くじ。という名前で7年ほど活動をしてきたけれどもこの度「コジエズ」という名前に変えた。

 

ネット上の名前なんて意味はないのだけど、「一番くじ。」という名前は初期も初期、Twitterを始めたてのときにネットで募集し当時の先輩がつけてくれたものである。そんななんの由来もない名前で活動してきたのだからまぁ雑な感じだなとは思うのだけどそもそもそういう固有名詞を考えるのが苦手なのだ。オリキャラの名前とかもあまり考えない質である。

しかし一番くじ。という名前には「名前検索がし辛い」「呼びづらい」「商標に引っかかっている」という様々な問題があり、新しい名前を考えていた。

コジエズという名前は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」のコジエズである。

別にこのことわざが特別好きというわけではないのだけど、ラジカルガジベリビンバシステムという劇団があってこの名前が好きだった。これと似た響きのものを考えたときにコケツニコジイランバコジエズはどうだろうか、ということを考えていた(どうだろうかというほどのものではない)

多分コジエズはここから来ている。

 

とにかくそういうことなので、今後よろしくおねがいします