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同人作家の同人以外の雑記が主です

目的とゲームの「外部」へ

群像に宇野常寛國分功一郎の対談『目的とゲームの「外部」へ』が掲載されている。その話が面白かったので興味深い部分をまとめつつ書き抜いてみたり。ちなみに群像の宇野常寛の連載についての記事は以下。

firstlot13.hatenablog.com

文中で宇野はハンナ・アーレントをひいて全体主義(目的に対しての手段しか認められないこと)に対するゲームのためのゲーム(手段のための手段のこと)を、國分の著作『暇と退屈の倫理学』内で語られる消費/浪費の構造ーー楽しむことで社会は変わるーーと交えて語っている。『暇倫』内の暇と退屈に侵された社会に対抗するためには一つの物事に没頭し楽しみ尽くす浪費という行為を持ってやっていかなければならないという話だ。しかし、ゲームのためのゲームは悪用されることもありその一例が『やりがい搾取』だと述べる。やりがいはゲームのためのゲームから自発的に生まれる過剰な没頭だが、それを他者から強制され、利益のために強制的にやりがいを創出させられる『やりがい搾取』は現代の問題になっている。
宇野はそれを『庭の話』でも出てくる評価プラットフォームの問題と絡めて、今の情報技術が(まぁTwitterとか)がそれを加速させていると言う。Twitterは没頭の結果に評価数(いいね、リツイート)を紐づけ差別化する(アルファツイッタラーなんて言葉もありますね)。それはもはやゲームとも言え、ゲームを超えた没頭という行為すらゲーム化しそれを没頭ではなく攻略させてしまうような道筋を作り出しているという。

 「やりがい」は目的を超えたところにあるもののはずなのだけど、それが今日では情報技術によってゲーミフィケーション的に「目的」に、いや「目的」どころか、単にインプレッションやエンゲージメントの数値が高いと嬉しくなってしまうといった、ゲームを「攻略する」快楽と結びついて、目的で縛るよりも狭い場所に人間を閉じ込めてしまっているように思えます。

では全体主義への対抗策であるゲームのためのゲームすらを飲み込む評価プラットフォームが孕む問題をどう乗り越えれば良いのか。この『ゲーム的な承認の交換の中毒をいかに解毒する』手段として宇野は「制作」を挙げる。國分はそれに対して以下のように言う。

「制作」がキーワードだとしても、人はめったにそこには向かわない、なにか大きな強いモノに侵されて、存在していないモノに存在してほしいと思ったときに、初めて制作に向かう。

それってコミケじゃん。と俺は思った。

コミケ周りと言うか同人誌界隈は常に学級会が行われており、この対談で行われる評価プラットフォームと没頭の話なんて頻出の議題だ。例えば同人誌の値付け問題(何ページなら何円という相場がない中でどう値付けするか)、ジャンルいなご問題(画力に物を言わせ旬ジャンルのイラストを書き散らしフォロワーを獲得すること)…。オタクは人一倍没頭というものに取り憑かれており、しかしその没頭がプラットフォーム上の評価とも結びついてしまうというアンビバレンツな環境にさらされているのだ。そう思うとTLで行われる学級会も深い哲学議論の一端のように思えてくるから不思議である。しかしそれだけ「制作」は尊いものなのだと思うとなんだか制作に熱が入る気もしてくるので不思議だ。